両軍合わせて十数万とも言われる大軍勢がぶつかり合った様子はまさに天下分け目の大勝負。その壮大なスケールが絵師たちによって描かれました。
「関ヶ原合戦図屏風」を見ていると……黄色い丸部分に注目。
そんな「関ヶ原合戦図屏風」を眺めていると、主に絵の右側(徳川軍)で「伍」と書かれた旗指物を背負っている武将をチラホラ見かけます。よく見ると、陣羽織の背にも「伍」が書かれているようです。

「伍」の旗指物と赤い陣羽織が目印。彼らは一体何者?「関ヶ原合戦図屏風」より
いったい彼らは何者なのでしょうか。あの「伍」には、どんな意味があるのでしょうか。
■「伍」の字は徳川家康の命を受けた使番の証し
「伍」の旗指物や陣羽織を身に着けている武将たち。彼らは使番(つかいばん。古くは使役)と言って、命令を伝える役目を担っていました。
いわゆる伝令将校ですが、たかが使い走りとあなどるなかれ。徳川家中でも、相応の身分≒信頼と実力ある者が務めています。
(情報の正確迅速な伝達は戦場における死活問題ですから、めったな者には任せられませんでした)

井伊家の使番。背中の母衣までもが赤備で統一されている(伍の字は使われていない)。「関ヶ原合戦図屏風」より
「伍」を用いたのは徳川家康直属の使番に限られ、この字は「互」に通じ、互いに助け合う仲間という意味があったと言います。
現代でも隊伍(仲間の集団)・列伍(仲間入りする)・落伍(仲間から外れる)などと使われていますね。
家臣や友軍は「伍」の旗指物や陣羽織で味方(徳川方)と識別し、家康からの命令を承ったのです。激しい戦闘で「伍」の旗指物がちぎれてしまっても、陣羽織で何とか識別したことでしょう。
■江戸時代の使番たち

戦がなくなると、使番たちは別の任務が与えられた。「関ヶ原合戦図屏風」より
さて、そんな使番の者たちは戦乱の世が治まると、遠方に赴任している幕府官吏の監督に当たるようになりました。目付と似たような職分ですね。
国目付や諸国巡見使として、幕府が直轄する二条城・大坂城・駿府城・甲府城などを監督。
定員は元和期で25名。それが連絡の緊密化にともなって徐々に増え、文化(1804~1818年)ごろには50名ほど、やがて風雲急を告げる幕末期には最大112名にまで増えました。各地とのやりとりに奔走した苦労が目に浮かびます。
しかし増え過ぎたことで予算を圧迫するようになったのか、慶応2年(1866年)には定員が半数56名に削減され、慶応3年(1867年)には役料(役職手当)も削られました。
そして同年10月14日の大政奉還をもって江戸幕府は滅亡。使番たちも自然消滅していったようです。
■終わりに

家康の本陣にて。よい報告を持ち帰れたのだろうか。「関ヶ原合戦図屏風」より
以上、徳川家康そして江戸幕府の使番について紹介してきました。
颯爽と「伍」の字の旗指物をはためかせ、戦場を疾駆する雄姿は、武士たちにとっても憧れだったことでしょう。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、彼らの活躍を見ることができるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 大石学 編『江戸幕府大事典』吉川弘文館、2009年12月
- 外川淳 編『戦国時代用語辞典』学研プラス、2006年12月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan