そこで、今回の記事では、徳川家康の六男である松平忠輝(まつだいらただてる)という人物にフォーカスをあててみたいと思います。あまり有名ではない彼ですが、意外にもインパクト大の人物でした。
松平忠輝像(複製、上越市立歴史博物館蔵)Wikipediaより
■家康の六男として、側室との間に生まれる
松平忠輝は、文禄元年(1592年)、徳川家康が51歳のときに、側室・茶阿局(ちゃあのつぼね)との間に生まれました。家康の六男として生まれた彼ですが、父である家康からは嫌われていたと言われています。
その理由にはさまざまなものがあります。例えば、生母(茶阿局)の身分が低かったことや、当時は忌み嫌われていた双子で生まれたこと、見た目が少し変わっていたこと、などがあります。いずれも、現代の感覚からすると驚くものばかりですよね。
■養子に出される
松平忠輝は、下野国(現在の栃木県)の皆川城の皆川広照に養育されます。
父からは嫌われた彼ですが、幼いころから楽器も得意で、運動神経も良かったと言われています。また、武術や兵法も会得しています。
■家康から勘当される
慶長11年(1606年)には、忠輝は、伊達政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)と結婚。
これにも諸説あるのですが、大阪夏の陣に遅れてしまったことや、将軍・秀忠の忠臣を斬ったことなどが理由として考えられています。
そして、翌年には秀忠によって改易、配流となりました。こちらの理由については、上記に加え、忠輝がヨーロッパとの交易に積極的だったからというものもあります。
ちなみに、改易となった時点で五郎八姫(いろはひめ)とは離縁しています。
■92歳まで生きた
忠輝は、改易のあと伊勢国(現在の三重県北中部)に配流され、その後、高島城(長野県諏訪市)の諏訪頼水(すわよりみず)という場所に移されました。
そこでは92歳で亡くなるまで58年のときを過ごしました。当時としては驚異的な長寿でした。晩年は、好きな俳句を詠んだり、釣りを楽しんだりしたと言います。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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