■軍歴もある公家!?
西園寺公望(さいおんじ・きんもち)は明治時代から昭和にかけて活躍した超・大物政治家の一人で、総理大臣も務めています。総理大臣としては珍しい公家の出身ですが、戊辰戦争に参加した「軍人」としての経歴もある人物です。
1928年、大勲位菊花章頸飾を佩用した西園寺(Wikipediaより)
生まれは日本の清華家の一つである徳大寺家で、さらに二歳の時に、同じ清華家である西園寺家の養子となり、さらにその後西園寺家の家督を相続しています。明治天皇よりも三つ年上で、幼い頃は明治天皇の遊び相手などもしていたとか。
彼が歴史の表舞台に初めて登場したのは、戊辰戦争の時です。山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北陸道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀として各地を転戦し、特に会津戦争では自ら鉄砲を撃ち、銃弾の飛び交う最前線にいたと言われています。
鳥羽伏見の戦いでは、少年ながら積極的に旧幕府軍と戦うことを主張することも。このように、「貴族出身のお坊ちゃん」というイメージには収まらない勇壮さも備えた人柄で、19歳の時には新潟府知事にも任じられました。
■フランスへ留学
彼の思想面に多大な影響を与えたのが、1871年からのフランスへの留学です。もともと彼は公家として初めて洋装で参内するなど異彩を放つ存在でしたが、さらなる学識を求めてソルボンヌ大学で学んだのでした。
フランス留学時代の西園寺(Wikipediaより)
パリに到着した直後、ちょうどパリ・コミューン(1871年)に際会したとされています。そして大学では法学者アコラスに師事し、第一次世界大戦時にフランス首相となったクレマンソーや社交界の友人たちと交流しました。
さらに、日本から来ていた中江兆民や松田正久との親交も深めています。ここで身に付けた自由主義思想は、その後の彼の政治的立ち位置と切っても切り離せないものとなりました。
当時の西園寺はかなりの遊び人で、フランス人女性からも人気でした。ずいぶんヤンチャな性格だったようで、以下のようなエピソードもあります。
ある時、友人が誤ってパリの店で窓ガラスを割りました。それでボーイが不機嫌そうにしていたところ、西園寺が「弁償すれば文句ないだろう」と尋ねて、ボーイが「そうだ」と答えたので、西園寺は残った窓ガラスをステッキで全部割り、呆れるボーイにガラス代を全部払って立ち去ったのです。
■挫折から政界へ
フランスからの帰国後に、初めての大きな挫折を味わいます。それは、中江兆民と共に「東洋自由新聞」を創刊して社長に就任した時の出来事でした。
社長になった彼に対して、宮中から圧力がかかって辞めさせられそうになったのです。西園寺は抗議しましたが、明治天皇から直々に命令が下ると(勅命)、あっさり退職しました。
このあっさりした退職ぶりは「身勝手」「執着がない」とも言われますが、この時の体験は彼にとって一種の「挫折」として感じられたようで、その後は若い頃の情熱が鳴りを潜めるようになりました。
やんちゃな性格だった彼が、その後パリ講和会議で再開したクレマンソーをして「かつての燃えるような情熱の持ち主は、皮肉屋の老人になっていた」と言わしめるほど人格的に変貌したのは、この新聞社の退職の経緯があったと思われます。彼はは、何事も無理をしないものぐさな性格になっていました。
その後、西園寺は伊藤博文の知遇を得て、伊藤の「腹心」的な立場で政治家としてのキャリアを積み重ねていきます。
伊藤博文像
初入閣したのは第二次伊藤内閣で、この時のポストは文部大臣。後に外務大臣も兼務しており、これはフランスへの留学経験が大いに役に立ったと言えるでしょう。
さらに、第三次伊藤内閣でも文部大臣として入閣。1903年に伊藤が枢密院議長になると、1906年に西園寺が二代目の政友会総裁になりました。原敬を懐刀として上手く使い、党勢の興隆に尽力しています。
また、現代にも残る彼の大きな足跡として、京都帝国大学・明治大学・立命館大学の創立に関わったことが挙げられるでしょう。特に立命館大学では、西園寺公望を「学祖」としています。
【中編】では、総理大臣となった西園寺が、桂太郎との協力で「桂園時代」と呼ばれる政治史上の一時代を築いた流れを解説します。
参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年
西園寺公望(さいおんじ・きんもち)は明治時代から昭和にかけて活躍した超・大物政治家の一人で、総理大臣も務めています。総理大臣としては珍しい公家の出身ですが、戊辰戦争に参加した「軍人」としての経歴もある人物です。
1928年、大勲位菊花章頸飾を佩用した西園寺(Wikipediaより)
生まれは日本の清華家の一つである徳大寺家で、さらに二歳の時に、同じ清華家である西園寺家の養子となり、さらにその後西園寺家の家督を相続しています。明治天皇よりも三つ年上で、幼い頃は明治天皇の遊び相手などもしていたとか。
彼が歴史の表舞台に初めて登場したのは、戊辰戦争の時です。山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北陸道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀として各地を転戦し、特に会津戦争では自ら鉄砲を撃ち、銃弾の飛び交う最前線にいたと言われています。
鳥羽伏見の戦いでは、少年ながら積極的に旧幕府軍と戦うことを主張することも。このように、「貴族出身のお坊ちゃん」というイメージには収まらない勇壮さも備えた人柄で、19歳の時には新潟府知事にも任じられました。
■フランスへ留学
彼の思想面に多大な影響を与えたのが、1871年からのフランスへの留学です。もともと彼は公家として初めて洋装で参内するなど異彩を放つ存在でしたが、さらなる学識を求めてソルボンヌ大学で学んだのでした。

フランス留学時代の西園寺(Wikipediaより)
パリに到着した直後、ちょうどパリ・コミューン(1871年)に際会したとされています。そして大学では法学者アコラスに師事し、第一次世界大戦時にフランス首相となったクレマンソーや社交界の友人たちと交流しました。
さらに、日本から来ていた中江兆民や松田正久との親交も深めています。ここで身に付けた自由主義思想は、その後の彼の政治的立ち位置と切っても切り離せないものとなりました。
当時の西園寺はかなりの遊び人で、フランス人女性からも人気でした。ずいぶんヤンチャな性格だったようで、以下のようなエピソードもあります。
ある時、友人が誤ってパリの店で窓ガラスを割りました。それでボーイが不機嫌そうにしていたところ、西園寺が「弁償すれば文句ないだろう」と尋ねて、ボーイが「そうだ」と答えたので、西園寺は残った窓ガラスをステッキで全部割り、呆れるボーイにガラス代を全部払って立ち去ったのです。
■挫折から政界へ
フランスからの帰国後に、初めての大きな挫折を味わいます。それは、中江兆民と共に「東洋自由新聞」を創刊して社長に就任した時の出来事でした。
社長になった彼に対して、宮中から圧力がかかって辞めさせられそうになったのです。西園寺は抗議しましたが、明治天皇から直々に命令が下ると(勅命)、あっさり退職しました。
このあっさりした退職ぶりは「身勝手」「執着がない」とも言われますが、この時の体験は彼にとって一種の「挫折」として感じられたようで、その後は若い頃の情熱が鳴りを潜めるようになりました。
やんちゃな性格だった彼が、その後パリ講和会議で再開したクレマンソーをして「かつての燃えるような情熱の持ち主は、皮肉屋の老人になっていた」と言わしめるほど人格的に変貌したのは、この新聞社の退職の経緯があったと思われます。彼はは、何事も無理をしないものぐさな性格になっていました。
その後、西園寺は伊藤博文の知遇を得て、伊藤の「腹心」的な立場で政治家としてのキャリアを積み重ねていきます。

伊藤博文像
初入閣したのは第二次伊藤内閣で、この時のポストは文部大臣。後に外務大臣も兼務しており、これはフランスへの留学経験が大いに役に立ったと言えるでしょう。
さらに、第三次伊藤内閣でも文部大臣として入閣。1903年に伊藤が枢密院議長になると、1906年に西園寺が二代目の政友会総裁になりました。原敬を懐刀として上手く使い、党勢の興隆に尽力しています。
また、現代にも残る彼の大きな足跡として、京都帝国大学・明治大学・立命館大学の創立に関わったことが挙げられるでしょう。特に立命館大学では、西園寺公望を「学祖」としています。
【中編】では、総理大臣となった西園寺が、桂太郎との協力で「桂園時代」と呼ばれる政治史上の一時代を築いた流れを解説します。
参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年
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