■おなじみの大事件

日本史、特に幕末の時代が好きな人には、「池田屋事件」について今さら説明する必要はないでしょう。

池田屋事件は、長州藩の過激派の志士たちが京への放火と天皇の拉致を計画している――という情報をつかんだ新撰組が、志士たちが会合していた池田屋に乗り込み、激しい戦闘となって数十名を捕縛あるは斬殺したものです。


その時、歴史が動い…てない!新選組 大奮闘の「池田屋事件」は...の画像はこちら >>


調布市の近藤勇像

しかし、この事件に関する伝説めいたさまざまな逸話のほとんどは、現代では作り話だったことが明らかになっています。池田屋事件そのものがあったのは間違いないのですが、その実態は謎だらけと言ってもいいでしょう。

まず、事件の流れをおさらいしてみます。

当時は、1863年の政変によって、長州藩士をはじめとする尊王攘夷派が京都から追い出されたところでした。そこで、長州藩士たちが京都でテロを起こすのではないかという噂が流れていました。

この頃は在京中の将軍が江戸に帰還し、新撰組も、京の警備が手薄になることを危惧していました。そんな中で上記の不穏な噂が流れたことから、彼らは警戒を強めます。

この頃の新撰組の動向について、永倉新八は後年その回想録の中で「新撰組は会津の命のまにまに巡邏を名として諸藩の動静をさぐり幕府に不利なものとわかれば暗殺、捕縛と高圧手段を加えた」と記しています。

そして1864年6月5日の早朝に大きな動きがありました。近江国郷士・古高俊太郎が放火の容疑で捕縛されたのです。薪炭商・桝屋喜右衛門と名乗っていた古高ですが、新撰組による拷問で、自分は長州藩士であることを自白します。

その時、歴史が動い…てない!新選組 大奮闘の「池田屋事件」は作り話だらけ?禁門の変とも無関係
古高俊太郎邸跡(Wikipediaより)

さらに彼は、強風の吹く6月20日に京都御所に放火して松平容保と中川宮朝彦親王を襲い、孝明天皇を長州へ拉致するという計画が進んでいることも「自白」したのでした。


その日の夜、新撰組はさっそく集会場所とされた池田屋へ向かいました。そして血みどろの激闘となったのです。

以上が、有名な池田屋事件の顛末です。



■作り話だらけ?

で、現在いろいろと疑問視されていることの一つが、そもそも尊王攘夷派による京市中への放火と天皇の拉致計画は、本当にただの噂だったのではないか? ということです。

この計画が本当だったとすると、あまりにも杜撰です。内通者がいるわけでもないのに、御所の天皇の居場所を把握するのは至難の業ですし、決行日の6月20日に本当に強風が吹く保証もありません。

近藤勇は、古高俊太郎の自白をもって、この噂は正しかったと述べています。しかし実際の供述調書には放火の計画しか書かれていませんし、そもそも厳しい拷問によって引き出した自白は、現代の視点で見ればとても「れっきとした証拠」とは言い難いものです。

よって、古高の自白は、尊王攘夷派を一掃しようと目論む新撰組による捏造だったのではないかという説もあるほどです。

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池田屋事件の痕跡と言われる三条大橋の擬宝珠の刀傷跡

ちなみに、当時の池田屋に志士たちが集まっていたのは、古高を奪還するための会議を開いていたからでした。

彼ら志士たちと新撰組の戦闘の詳細も不明です。近藤の回想によると、当時池田屋に突入したのは近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助・近藤周平の五名とあるのに対し、他の隊士の証言では顔触れが異なっているのです。
何が本当なのか全く分かりません。

また、池田屋に突入した近藤が最初に斬った志士・北添佶磨が階段を転がり落ちるシーンは有名ですが、北添は実際には自刃したことが明らかになっています。さらに、沖田総司が吐血したというエピソードも、記録としては残っていません(永倉新八の回想録では、「持病の肺患が再発して倒れた」とある)。

池田屋事件は、新撰組が登場する娯楽作品の題材として、昔から頻繁に取り上げられてきました。現在「名シーン」と言われているものは、ストーリーを盛り上げるために創作あるいは脚色された演出だと考えていいでしょう。



■「禁門の変」も関係なし

そして最後に、「池田屋事件は禁門の変のきっかけになった」という見方についてです。

長州藩は有力な志士たちを大勢失ったため、この失地回復のために京への出兵を決めたと言われています。これがいわゆる禁門の変です。

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禁門の変で来島又兵衛らが迫った蛤御門

しかしこれも事実ではなく、長州藩による京への出兵は、池田屋事件よりも前に決定していました。藩主である毛利定広の参加も、事件前日に決まっていたといいます。仮に事件がなかったとしても、いずれ禁門の変は起きていたに違いありません。

つまり、池田屋事件というのは決して歴史を動かした大事件ではないのです。


参考資料:日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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