みなさんは、江戸時代というと何を思い浮かべるでしょうか?長く太平の世が続き、様々な政策が行われたり、文化が花開いた時代でもありました。

そんな江戸時代を語る上で欠かせないのが「鎖国」ではないでしょうか。
しかし「鎖国」は江戸時代の最初から行われていたわけではありません。実は、鎖国前にカンボジアのアンコールワットに行っていた侍がいたのです。

そして彼は、そこでとあることをしてきました……。

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■まずはアンコールワットについてざっくりおさらい!

江戸時代、カンボジアのアンコール・ワットに訪れた武士。なんと”落書き”を残して帰国!


アンコール・ワット(Wikipediaより)

アンコールワットは、カンボジア西北部にあるヒンドゥー教の寺院遺跡です。ユネスコの世界遺産「アンコール遺跡」の一つとして、国内外から多くの観光客が訪れます。

■江戸時代初期、アンコールワットを訪れた日本人

江戸時代以前には、南蛮文化の到来などもあり、ポルトガルなどに日本の人が興味を持つのはイメージできそうですが、カンボジアというのは少し意外ではないでしょうか?

江戸時代初期、熊本の侍・森本右近太夫一房(もりもとうこんだゆうかずふさ)という人物がアンコールワットを訪れています。

森本の生涯は詳しいことがわかっていませんが、父は加藤清正の重臣だったと言われています。清正の死後、森本は平戸藩士となりました。

平戸港は当時の貴重な貿易港だったため、ここからカンボジアに向けて出発したのではないかと考えられています。



■なぜアンコールワットを訪れたのか?

森本がアンコールワットを訪問したのは、当時の日本人がアンコールワットをインドにある仏教の聖地「祇園精舎」と勘違いしていたことが理由だと言われています。

ちなみに、祇園精舎がインドにあるということがわかったのは、19世紀の幕末のころだったといいます。


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『祇園精舎図』森本によって作られたアンコールワットの実測図(Wikipediaより)

■アンコールワットに残した「あるもの」

森本は、アンコールワットを訪れた際、入口近くの東西南北の回廊が交わる「十字回廊」の柱に「落書き」を残しています。

その「落書き」の内容は、ここまで来るのに海路を旅してきたこと、そして父母の幸福を願って4体の仏像を奉納したことです。

なお、カンボジア内戦期に、ポルポト政権によってペンキで塗りつぶされてしまったため、現在は少し読みにくい状態となっています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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