サルのように陽気な性格と持ち前の機転で、天下を支配した戦国武将・豊臣秀吉。築城や城攻めの天才の異名を持つ人物であり、ときには女子供を厭わず虐殺するなど冷酷な一面を持ち合わせていました。


今回は、そんな豊臣秀吉が玉のように可愛がった愛娘・豪姫やその夫との関係について紹介します。

■豊臣秀吉の子供

豊臣秀吉は農家出身の戦国大名であり、当時にしては珍しい非男色家の傾向がありました。そして、多くの女性を愛したとして知られる人物です。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが書き記した「日本史」にも、「300人の側室を抱えていた」と記述されています。

そんな豊臣秀吉でしたが、生涯で3男1女の子供しか授かっておらず、子宝には恵まれませんでした。織田信長が20人以上もの子供を授ったのにたいして、これは極めて少ない数だと言えるでしょう。

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■豊臣秀吉と豪姫の出会い

あるとき、子供に恵まれないことに悩む豊臣秀吉のもとへ養子縁組の話が舞い込みます。その養子縁組の相手こそが、家臣・前田利家の四女である当時2歳の「豪姫」でした。これが、秀吉と豪姫の出会いです。

豪姫は、子宝に恵まれなかった豊臣秀吉にとって人生初の娘。可愛くないわけがありません。豪姫のことを心から可愛がり、まだ幼い頃から「とびきりの婿を用意してやるからな」と親バカっぷりを発揮していたようです。


豊臣秀吉は、豪姫の夫として戦国時代の貴公子といわれた八郎(宇喜多秀家)を迎えいれています。



■豪姫の夫

八郎(宇喜多秀家)は、10歳で父・宇喜多直家を亡くして家督を継いでおり、幼いながらもお家存続のために奮闘する聡明な子供でした。

そんな姿に心を打たれた豊臣秀吉は、八郎(宇喜多秀家)を実の息子のように可愛がったといいます。

11歳になった八郎(宇喜多直秀)は、現在の岡山県周辺で57万石の大大名となっており、中国地方で猛威を振るった毛利家の監視役を務めるまでに出世。元服を迎えた際には、豊臣秀吉から「秀」の字を与えらて「秀家」と名乗るようになっています。

豊臣秀吉は、そんな実の息子のように愛した宇喜多秀家と愛娘・豪姫を引き合わせて結婚させました。夫婦関係は非常に良好で、3男2女の子宝にも恵まれます。

しかしこの幸せな時間は、豊臣秀吉の死後、宇喜多秀家が後継争いに巻き込まれることによって崩壊していくのですが…。それはまた別の機会に。



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豊臣秀吉にとって自身が愛した2人の結婚は、非常に嬉しかったことでしょう。いざ戦いとなれば冷酷な一面をも見せたようですが、甲冑を脱いでしまえば1人の父親に過ぎなかったのかもしれませんね。

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