大義を思う者は最期まで…石田三成が処刑直前に干し柿を拒んだ理由とは?【どうする家康】
その残党らも次々と処刑されて行く中、三成の息子が発見されます。
男性はどれほど幼くても、いつか成長して仇討ちを企まないとも限りません。だから大抵の場合は、赤子にいたるまで殺しておくのが普通でした。
さて、今回は生かすのか殺すのか……果たして「我らが神の君」徳川家康はどうするのでしょうか。
■大鋸屑も言えば言わるるもの……家康の苦笑い

本多正信。「徳川十六神将図」より
本多正信(佐渡守)が徳川秀忠(中納言)のお供で、京都二条城へやってきた時のことです。
「佐渡よ。実はそなたに相談があってのぅ」
家康の話をうかがえば、寿性院(妙心寺の塔頭)に石田三成の遺児が匿われていたとのこと。
「此度の一件で、命惜しさに逃げ込んだのではなく、幼少時から出家しておったと言う。また寺の連中も必死に助命嘆願してきておってな……」
これは如何したものか。家康の諮問に、正信はすかさず答申しました。
「それはすぐにもお許しあるべきです。
石田三成が最大の功労者?関ヶ原では敵も敵の首謀者だったであろうに、正信は何を言っているんだ……家康はいぶかしみました。
「その意(こころ)は?」家康の問いに、正信は答えます。
「こたび治部めが妄想に駆られて兵を挙げてくれなければ、殿が勝つことはできず、天下の政権を握ることも叶わなかったのです」
確かに、戦いが始まらなければ勝ちも負けもありません。もし三成たちが挙兵しなければ、そのまま平穏無事に豊臣家の天下が続いていたことでしょう。
「ゆえに治部めは殿に天下をとらしめた最大の功労者と申し上げたのでございます」
「なるほど。まったく『大鋸屑も言えば言わるる』ものよ」
正信の皮肉に気づいた家康は、一本取られたと苦笑いしました。
ちなみに大鋸屑(おがくず)とはノコギリで木を切った時に出るゴミですが、これを言い換えた慣用句です。
「それがしが木を切ったついでに大鋸屑が出るのではなく、それがしは大鋸屑を作るために木を切っているのです」
つまり石田三成が兵を挙げたのは家康を倒すためではなく、むしろ家康に天下をとらせるためあった……と。要するに「モノは言いよう」ということですね。
■終わりに

修行を積んだ済院和尚(イメージ)
……本多佐渡守正信 中納言殿の御供して。二條の御城にて謁し奉りし時。石田三成が息。以上、石田三成の遺児が生命を救われたエピソードを紹介しました。妙心寺のうち寿性院が弟子になりて。すでに幼年より釈徒にも成てある事なればゆるし給はれとかの住持はじめ一山の僧共願ふよし御物語あれば。正信承りそれは早く御許あるべし。三成は 当家へ対し奉りてはよき奉公せし者なれば。そが子の坊主一人や二人たすけ給はるとも。何のさゝはりかあらむと申す。 君三成が我に奉公せしとはいかにと咎め給へば。正信さむ候。こたび三成妄意にかかる事企てずば御勝にもならず。 当家一統の御代にもなるまじ。さすれば治部は 当家への大忠臣と存ずれといへばほほゑませ給ひ。おかくずもいへばいはるゝものとの御戯言ありしとぞ。(霊岩夜話。)按ずるに此石田が子の僧。其願のまゝ助命ありて。後には済院和尚といひて泉州岸和田に居しが。年老て後は岡部美濃守宣勝ゆへありて。よく扶助して終りをとりしとなり。……
※『東照宮御実紀附録』巻十一「免三成遺子」
普通に「助けてあげて下さい」と言えばいいのに、あえて「(家康に天下をとらしめた)三成の功績に免じて赦してやって下さい」と気の利いたジョークで助けた正信のセンスが秀逸ですね。
その後、三成の遺児は修行の末に済院和尚と呼ばれ、和泉岸和田に暮らしました。その後、年老いてからは岡部宣勝に養われ、最期を看取られたということです。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan