幕末期の日本で薩摩藩と言えば、誰もが「長州藩とともに討幕を推し進めた攘夷派の代表格」というイメージを持っていることでしょう。
しかし、そんな薩摩藩の動向をつぶさに見ていくと、実際には最初から討幕派でもなかったし、攘夷についても途中で政策の転換があったことが分かります。
では、同藩が「異敵は討ち払うべし」という攘夷政策を転換し、開明政策に転じたのはなぜだったのでしょうか。その大きな理由のひとつが、1863年に発生した薩英戦争でした。
簡単におさらいしておくと、薩英戦争は薩摩藩とイギリスとの間で起こった戦闘です。
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イギリスは、薩摩藩から、生麦事件における賠償金の支払いと犯人の引き渡しを拒否されました。そこで、横浜に停留していた七隻の軍艦を鹿児島湾に派遣し、湾内で会談を開きます。しかしこれは失敗しました。
そこで、イギリス艦隊は薩摩藩の所有していた船を賠償金代わりに接収しようとします。これに薩摩藩が砲撃を始めたことで、薩英戦争の火ぶたは切って落とされました。

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘(Wikipediaより)
この戦闘はおよそ二日間続きます。薩摩藩の砲台は旧式だったため、最新式のイギリス軍艦には勝てず敗北。イギリスが勝利を収めました。
以上が薩英戦争のいきさつですが、これまでは薩摩藩がボロ負けしたというイメージが一般的でした。
■善戦できた二つの理由
薩英戦争で、薩摩藩は一方的にやられたわけではありません。そもそも薩摩藩の死傷者は19人で、イギリス軍は63人と大きな差があります(イギリスの死傷者数については諸説あり)。
ではなぜ、イギリスはこれほどの大損害を受けたのでしょうか。
その大きな理由は二つあります。ひとつは、当時の天候が大嵐だったことです。
実は薩英戦争が始まったその日は、鹿児島湾に強風が吹き付けていました。よって荒波の中での戦闘となり、イギリス軍艦は照準がうまく定まらなかったのです。

台場公園の薩英戦争砲台跡
また、強風によって押し流され、薩摩藩の砲台の射程距離内に押し出された艦も多くありました。例えばユーリアラス号がそうで、沿岸付近に押し流されたため艦長と副館長が戦死しています。
薩摩藩が善戦したもうひとつの理由は、イギリス軍の装備に不備があったことです。当時のイギリス艦隊が使っていたのがアームストロング砲で、これはものすごい破壊力と射程距離を持つ当時の最新兵器でした。
これらの理由から、イギリス軍は実力を発揮することができず「完全勝利」を諦めたのでした。
よって、「薩英戦争でイギリス軍は薩摩藩を圧倒した」という一般的なイメージとは反対に、どちらかというとこの戦争は痛み分けに終わった形だったのです。
■災い転じて……
さて、その後どうなったかというと、和平交渉においてイギリスと薩摩藩は、かえってその距離を縮めることになりました。
薩摩藩は、この戦争でイギリスの強さを思い知らされました。これほどの戦力差があっては、外国人を討ち払う「攘夷」は不可能だと気づいたのです。藩内では、むしろイギリスと親交を深めるべきだという意見が出るようになりました。
また和平交渉を経て、イギリスも薩摩藩に対して興味を持ち始めました。この縁があって、のちにイギリスは薩摩の討幕運動をバックアップする形になり、武器弾薬を輸出するようになります。

交渉にあたった薩摩側の藩士たち(Wikipediaより)
さらに薩摩藩にとってラッキーだったことがあります。薩英戦争の和平交渉によって二万五千ポンド(およそ七万両)をイギリスに支払っていますが、藩としての金銭的負担は軽く済んでいるのです。
なぜかというと、この賠償金は幕府からの借用金で支払ったからです。
また、うやむやといえば、生麦事件の実行犯の引き渡しについてもそうです。結局「逃亡中」ということで犯人は処罰されていません。
このように見ていくと、薩英戦争というのは、薩摩藩にとっては「災い転じて福となす」あるいは「棚からぼた餅」と言える出来事だったことが分かるでしょう。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan