集団処刑、熱湯漬け拷問…そして島原の乱、勃発。
一揆勢は戦闘員と非戦闘員含めおおよそ37,000人で、原城にて籠城戦を仕掛けますが、全滅という結果で島原の乱は収束しました。
しかし、その一揆の中で唯一生き残った者がいました。その人物は山田右衛門作(えもさく)。後に江戸の岡っ引きになった人物です。
今回は山田右衛門作のみが生き残れた理由や生き残った後の生涯について紹介します。

原城址/Wikipediaより
■大名のお抱え南蛮絵師だった

山田右衛門作が描いたとされる天草四郎陣中旗/Wikipediaより
幼い時にポルトガル人に西洋画法を習っていたことがきっかけで、右衛門作は有馬直純や松倉重政、松倉勝家に南蛮絵師(西洋画家)として仕えます。
そして、島原の乱が勃発すると一揆勢に原城に立て籠ります。
実際のところ、右衛門作はキリシタンではありませんでした。しかし、家族が人質に取られてしまったため、仕方なく一揆勢に加担したとのことです。
右衛門作は一揆勢の中では天草四郎に次ぐ副大将であり2,000人を率いて本丸の守備を担当しました。
また、南蛮絵師として『天草四郎陣中旗』を描いたのも右衛門作であると言われています。
■江戸幕府に内通する

天草四郎/Wikipediaより
学問に秀で文章にも達者だった右衛門作は、幕府軍との交渉役も担っており、その役割を利用し密かに幕府軍と内通。
しかし、一揆勢に発覚してしまったことで右衛門作は家族を処刑された挙句、自身は牢に入れられてしまいます。
その後すぐに幕府軍の総攻撃により原城は落城。右衛門作はその時も牢におり、幕府軍に斬られかけますが、矢文を見せたことで助命されました。
島原の乱後は幕府による取り調べを受けました。その際の状況を記した口上書『山田右衛門作口書』は、当時の一揆勢側の状況を知る信ぴょう性の高い史料として重宝されています。
■島原の乱後は目明しとして生きる

踏絵の様子/Wikipediaより
全てが終わった後、右衛門作はキリシタンを摘発する目明し(岡っ引き)となり、江戸で暮らしました。南蛮絵師として踏絵用に油絵を描いたと言われています。
また、明暦3年(1657)に起きた明暦の大火以降、松平信綱の屋敷内の番所で喫煙を固く禁じる絵も描きました。
右衛門作の「番人が喫煙により畳を焦がした絵」と「喫煙により番人が処刑された絵」はリアリティに溢れており、これ以降戒めるようになったといいます。
晩年は故郷に帰り、そのまま生涯を終えました。
■最後に
島原の乱では右衛門作のようにキリシタンではないにも関わらず、強制的に一揆に加担させられた者や戦火を逃れるために仕方なく一揆に加担した者が多くいました。
その者もいながら、全滅させるほどの総攻撃を仕掛けたため、キリスト教をせん滅したい幕府軍の容赦なさがうかがえます。
その中で生き残った右衛門作は、想像を絶する喪失感に襲われたに違いありません。その状況の中でも天寿を全うした右衛門作の生き様に尊敬の念を感じてしまいますね。
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