■「刀」ばかりではなかった

幕末期の歴史に詳しくない人でも、新撰組の名前は知っている人が多いでしょう。

新撰組は、歴史的にも小説・漫画・アニメ・映画などあらゆるジャンルで題材にされてきた、エンタメ界隈では知らない人のいない超有名組織です。


おそらく、世代を超えてここまで愛されている組織は他にないと言ってもいいでしょう。

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では、皆さんはそんな新撰組に対してどのようなイメージを持っているでしょうか。多くの場合「ダンダラ羽織で攘夷志士たちを取り締まった剣客たち」という認識になっていると思います。

幕末期、新選組は「刀」に見切りをつけていた!西洋式戦術を取り入れた柔軟な戦闘スタイル【前編】


高幡不動尊の土方歳三像

さらにそのイメージが高じて、新撰組は西欧化の波が押し寄せてもそれに抗い、「武士」として最後まで刀で戦い続けた……と思われがちです。

そうしたイメージが強いのも無理のない話です。やはり日本人は「剣客」「日本刀」「侍の矜持」などのキーワードに弱いのでしょう、新撰組のカッコいいイメージはそこに収斂されると言っても過言ではありません。

しかし、私たちが思っている以上に、新撰組というのは考え方が柔軟でした。

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最後まで「刀」での戦いにこだわったというイメージとは裏腹に、しっかり西欧由来の戦術や武器も導入していたのです。



■禁門の変では功績なし!?

新撰組が、最後の最後まで和装で刀を振るって戦っていた……というのは完全な誤解です。

もちろん、結成直後の時期は剣術を重視する剣客集団として活躍していました。

しかし、実際には私たちが思うよりもずっと早い段階で、洋式装備への転換がはかられていました。

その大きなきっかけとなったのが、1864年7月に勃発した禁門の変(蛤御門の変)です。
ご存じ、長州藩が京でクーデターを企てた大事件ですが、この時、新撰組はほとんど活躍できなかったのです。

禁門の変では幕府側として参加した新撰組ですが、装備は刀剣を中心としたものでした。しかし禁門の変における戦いでは大砲や銃などが使われたため、彼らはほとんど出番がありませんでした。

もちろんこのクーデター騒ぎでは幕府側が勝利を収めたのですが、局長・近藤勇と副局長の土方歳三は危機感を募らせます。

幕末期、新選組は「刀」に見切りをつけていた!西洋式戦術を取り入れた柔軟な戦闘スタイル【前編】


板橋区の近藤勇像

「これからも新撰組が存在感を保つには、組織の強化が必要不可欠だ。そのために、人員強化と装備の洋式化をはかろう」ということになったのです。

ちなみに、新撰組が大活躍したことで有名な池田屋事件ですが、これは禁門の変の直前に起きました。

そうして考えてみると、彼らが刀を振るって活躍できたのは池田屋事件がピークだったと言えるかも知れません。



■剣槍は差し置き……

さて、1865年3月に、新撰組は本拠地を移転します。壬生屯所から西本願寺へ移動した彼らは、幕府陸軍の兵制や装備を参考にして訓練を行うようになります。

幕府陸軍も、旧態依然とした装備だったというイメージがありますが、実際にはこの時すでに最先端の西洋式の兵制・装備を取り入れていました。

そこで新撰組も、小銃や大砲を揃えて訓練を行っています。


幕末期、新選組は「刀」に見切りをつけていた!西洋式戦術を取り入れた柔軟な戦闘スタイル【前編】


大砲(イメージ)

当時の鳥取藩の記録でも、当時の様子について「剣槍は差し置き砲術訓練盛んに相行われ候」と記録されています。かの新撰組が「剣槍は差し置」いていたと聞いて、びっくりする人も多いのではないでしょうか。

【後編】では、そんな新撰組がどのような体制で鳥羽・伏見の戦いに臨んだのかを見ていきましょう。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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