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池田屋事件をざっと説明すると、源氏元年六月(1864)、京都三条小橋の池田屋で密談中の尊王攘夷派を、新選組が襲撃した事件です。

2001年ごろの池田屋跡地(筆者撮影)
尊王攘夷派の浪士たちは「祇園祭の混雑に付け込んで、京都市中に火をつけ、天皇を拉致する」という計画を立てていました。
それを古高俊太郎という浪士を捕縛して拷問の上聞きだした新選組は、そのことを会津藩と桑名藩にも勿論のこと知らせます。会津藩主の松平容保は京都守護職に、弟の桑名藩主・松平定敬は京都所司代に、共に幕府から命じられ暗殺が跋扈していた京都の治安を守るべく、幕府を支えていました。
会合の日、祇園会所にて会津・桑名の藩兵が到着するのを待っていた新選組。新選組は会津藩がお抱えとした一組織。藩兵が来ない限り勝手に出動はできません。
しかし時間になっても両藩が現れないので、局長・近藤勇が単独で出動・探索することを決し、近藤隊は池田屋へ、土方隊は四国屋へと向かいます。
新選組隊長の近藤勇は隊を二手に分け、自らは10数名率いて三条小橋を目指し、もう1隊は土方歳三率いる20数名で四条通りを北上しました。
近藤隊が池田屋の戸を叩いたのは、午後10時半ごろ。近藤隊は近藤、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、武田観柳斎、谷万太郎、浅野藤太郎、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門の10名。中に切り込んだのは4名と言われています。
そして遅れて到着した土方隊も参戦し、ほぼ新選組が制圧し終わった後に、ようやっと会津・桑名の両藩が現れ、新選組は鼻高々…というのが通説の描かれ方です。

京都・高瀬川周辺の地図
■会津・桑名は本当に遅れたのか?
ところが『孝明天皇紀 第五見聞雑記』には途中で会津・桑名が合流し、新選組とともに50名の大勢で池田屋に乱入したと書いてあります。
両藩が身分の低い浪人たちにお手柄を颯爽と横取りされたのを、妬んだり体裁が悪いから誤魔化したのでは…?と思いたいのですが、実は新選組生き残りの島田魁も、「六月五日夜、会津両藩当組と合シメ、七つ時(午前3時30分)頃切り込んだ」と日記に記しています。
島田魁は土方隊に所属していました。そして彼は死ぬまで「誠」の腕章を手放さなかったというほど、心は「新選組」のまま逝った隊士。明治になって書かれた手記ですが、人生を左右した事件の記憶が曖昧になることは考えにくいと思われます。
やはり会津・桑名が後からやってきたというのは、新撰組の活躍をちょっと誇張したい後世の演出のようです。
参考:ビジュアルワイド江戸時代館(小学館)
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