幕末期に行われた第二次長州征伐は、1866年(慶応2年)に江戸幕府と、討幕運動の拠点でもあった長州藩との間で起きた戦いです。
第二次なら当然「第一次」もあるだろうと思われるでしょうが、最初の長州征伐は未発に終わっています。
今回はその経緯と、「第二次長州征伐で惨敗したことで、幕府は権威が失墜した」という通説の真実について解説します。
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第二次長州征伐は、長州藩が軍拡を進めていることに幕府が脅威を感じ、二度目となる長州派兵に踏み切ったものです。これに、幕府軍は15万の大軍を動員しました。
しかしその始末はご存じの通りで、最新兵器で武装した長州軍に惨敗するという結果になりました。しかも、長州の軍勢はわずか3千5百人だったのです。
さらに、幕府軍の最高指揮官だった徳川家茂が病死したことで、撤退せざるを得なくなりました。

徳川家茂像(Wikipediaより)
さすがに15万対3千5百の大差があったにもかかわらず惨敗したのですから、幕府の権威が低下しないはずがありません。しかしそれは、決定的なものではありませんでした。
なぜならこの失敗を踏まえ、幕府では急ピッチで改革が進められていったからです。むしろ第二次長州征伐後、幕府の権威は回復基調にあったと言っても過言ではありません。
■徳川慶喜による軍備・軍制改革
この、長州征伐の敗北後に将軍職に就いたのが徳川慶喜です。幕府の権威回復のために、彼はさまざまな改革を実行しました。特に力を注いだのが軍備・軍制改革です。
実は徳川幕府は、すでに1862年(文久2年)から近代的・西洋的な軍備を整えていました。ただその動きはゆっくりしており、兵士もいまいち頼りない感じだったのです。

1865年時点の幕府軍。第二次長州征伐よりも前から西洋式の軍装が取り入れられていたのが分かる(Wikipediaより)
そこで、慶喜が軍備改革のために助力を求めたのがフランスです。もともと親しい関係にあったフランスから、幕府は近代兵器の輸入を進めていきました。
それだけではなく、フランス公使のロッシュを通してフランスの軍人を教官として雇い入れ、兵士の装備も昔ながらの鎧兜から洋風の軍服へと変えました。ちなみにフランス公使のロッシュは、長州征伐の際も幕府に援助を行っています。
さらに横浜に伝習所を設立すると、西洋式の訓練もスタートさせました。
■戊辰戦争での敗北
また、慶喜が軍制改革のためにメスを入れたのはそれだけではありません。

徳川慶喜の墓
この結果、江戸幕府は歩兵・騎兵をあわせて八個連隊を主とした陸軍を完成させたのです。これは最盛期には一万を超える兵力になっていたともいわれており、当時の日本では最大級と言える規模の軍隊でした。
このように見ていくと、確かに第二次長州征伐で幕府の権威は低下したものの、それは決定的なものではなかったことが分かります。
むしろ江戸幕府・そして徳川慶喜は、第二次長州征伐の失敗をバネに軍の装備や軍制を大胆に改革し、その力を強めていったのです。
では、そこまでやっておいてなぜ戊辰戦争では惨敗してしまったのか? という疑問が湧いてきますね。
戊辰戦争の際、幕府軍の兵士の装備や兵器は旧態依然としたものだったので敗けたのだとする説があります。しかしこれは誤りで、当時の幕府軍の装備も、上記の慶喜の改革のおかげで最新鋭のものが揃っていました。にも拘わらず幕府軍が敗北したのは、ひとえに指揮官のミスによるものだったのです。
装備や制度が完璧だったにも関わらず、江戸幕府はヒューマンエラーによって敗北したと言えるでしょう。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan