大河ドラマの主人公・まひろ(紫式部)や藤原道長らと聞くと、みやびな王朝文化をイメージしますよね。そんな平安時代ですが、実は大きな対外危機も起きていました。
それが、今回の記事でご紹介する「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」と呼ばれる事件です。事件の背景や内容、そしてそれを日本の誰がどのように撃退したのかについて詳しくご紹介していきたいと思います。
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刀伊の入寇(といのにゅうこう)とは、平安時代中期の寛仁3年(1019年)に起きた異賊の侵攻です。九州北部に襲来し、大きな被害をもたらしました。”刀伊”とは、中国・満州地方にいた「女真族」を指しています。

「女真國」の人物:(Wikipediaより)
■刀伊の入寇が起きたときの時代背景
女真系の人々は、交易ルートを通じて宋とのやりとりをしていましたが、契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことなどにより、交易ルートが閉ざされてしまいました。
このころから女真系による高麗沿岸部への襲撃が活発化していきました。
■刀伊の入寇:対馬・壱岐への来襲
刀伊の入寇は、まず対馬島に来襲し、その後壱岐島、九州北部沿岸へと進んでいきます。対馬島では18人が殺害され、116人が連れ去られたと言われています。
また、壱岐島では国司である藤原理忠を含む148人が殺害され、239人が連れていかれたとされています。
■藤原隆家は刀伊の入寇を朝廷に伝え、自ら撃退
刀伊の入寇の記録が今に伝わっているのは、当時太宰権帥であった藤原隆家が飛脚便で朝廷に報告し、藤原実資には私信で経緯を伝えたからでした。
藤原実資が記した『小右記』という日記には、刀伊の入寇についての記録が残っています。
藤原隆家は、自ら武士団を率いて女真族を撃退しました。藤原隆家は藤原道長の兄・道隆の次男です。隆家は道長と対立し一時出雲に流されており、この当時は眼病の治療のために大宰権帥になっていましたが、事実上の左遷といえるでしょう。
なお、藤原実資は藤原道長と距離を取っており、このことも隆家が実資に私信を送った理由と考えられています。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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