大河ドラマでも重要な役割を果たしている「藤原道長(演:柄本佑)」ですが、彼と彼の息子である藤原頼道の時代は、藤原氏がもっとも栄華を極めた時期とも言えます。
しかし、いきなり権力を持ったわけではありません。藤原氏の力が強くなっていく過程には、彼らによる他氏排斥事件が起きていました。
そこで、今回の記事では、そんな他氏排斥事件のひとつである「承和の変(じょうわのへん)」を取り上げてみたいと思います。
■承和の変が起きた背景は?
承和の変が起きた背景としては、当時、次の皇太子の座に誰がつくのかをめぐって対立が起きていたことが挙げられます。
823年(弘仁14年)、時の天皇であった嵯峨天皇は譲位し、彼の異母弟が淳和天皇(じゅんなてんのう)として即位します。続いて、833年(天長10年)になると、淳和天皇が譲位し、先代の嵯峨天皇の子どもが仁明天皇(にんみょうてんのう)として即位します。
ここで、淳和天皇の子ども(恒貞親王)は、次の天皇になる皇太子に決まりました。わかりにくいですが、淳和天皇は先代天皇であり異母兄でもある嵯峨天皇の嫡出子に譲位している点がポイントです。
これは、嵯峨天皇と淳和天皇の間で、それぞれの家から交互に天皇を出すという約束があったためです。
このような複雑な継承によって、恒貞親王は強い後ろ盾を得られない状況にいました。
■恒貞親王は、藤原良房の台頭に危機感を覚える
このとき、藤原良房という人物がいました。
『前賢故実』の藤原良房(Wikipediaより)
彼は、嵯峨天皇から信頼を得ており、力をつけていました。
仁明天皇と良房は、道康親王の皇位継承を望みました。道康親王を皇太子にする動きがあることを察した恒貞親王は、争いを避けるために何度か皇太子辞退を申し出ますが、その都度、嵯峨上皇に保留にされていました。
■承和の変では何が起きた?
840年(承和7年)に淳和上皇が崩御し、さらにその2年後には嵯峨上皇も病に倒れてしまいます。そこで恒貞親王に近かった伴健岑・橘逸勢らが謀反を企てているという密告が藤原良房と仁明天皇のもとへ届きます。
嵯峨上皇が崩御すると、藤原良房と仁明天皇はすぐに伴健岑と橘逸勢らを捕縛します。これが承和の変と呼ばれる事件です。
■承和の変が起きた後の影響や変化は?
捕らえられた伴健岑と橘逸勢は、重い刑である流罪に処されました。恒貞親王については、皇太子の座を廃止されてしまいました。その後は、出家しています。
伴氏と橘氏は藤原氏のライバルでした。
藤原良房は承和の変当時は中納言でしたが、直後に大納言に昇進します。その後も右大臣、太政大臣にまで昇り詰めています。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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