この政変は朝廷を牛耳った権力者・蘇我入鹿(いるか)を中大兄皇子と中臣鎌足が暗殺に追い込んだ事件であることはご存知かと思います。
蘇我入鹿暗殺の様子/Wikipediaより
しかしながら、入鹿に手を下したのは中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足ではないことはご存知だったでしょうか。
実際に入鹿を暗殺したのは佐伯子麻呂(さえきの-こまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎの-わかいぬかいの-あみた)と呼ばれる貴族で、暗殺を失敗しかけた人物でもありました。

月岡芳年 画
今回はその二人がどのような人物かを紹介しつつ、乙巳の変での活躍と裏話、その後についてもご紹介します。
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■鎌足よりスカウト

中臣鎌足/Wikipediaより
子麻呂、網田ともに出身地や生まれた年は不明です。ただ、佐伯氏は宮廷警護の任務で王権に仕えるようになった氏族で、稚犬養氏は犬の飼育で王権に仕えた後に宮廷警護も担当した氏族であります。
また、葛城稚犬養氏は葛城(のちの大和国で現在の奈良県)に居住していたことから名付けられました。
そのことから、子麻呂も網田も由緒ある生まれの人物であることがわかります。
そんな2人は入鹿を暗殺するのに持ってこいの武勇を持ち合わせていたので、皇極天皇3年(644)に中臣鎌足からスカウトされました。
■恐怖心により体が動かず

中大兄皇子と中臣鎌足/Wikipediaより
そして、皇極天皇4年(645)に三韓である新羅・百済・高句麗の使者が貢物をも持って来日する三国の調が大極殿にて催されます。
この儀式には入鹿も出席しており、これを逃すまいと中大兄皇子や鎌足、子麻呂、網田の4人は大極殿に潜み機会をうかがっていました。
しかし、入鹿を暗殺する役目を担っていた子麻呂と網田の2人は、水で流したご飯を吐いてしまい、鎌足が叱咤激励するくらい恐怖心が芽生えてしまいます。
また、中々現れない2人に上表文を読んでいた中大兄皇子たちの協力者・蘇我倉山田石川麻呂の焦りを入鹿に不審がられてしまった威圧感にも恐怖してしまい、立ちすくんでしまいました。
■無事に入鹿暗殺

追い詰められた蘇我入鹿/Wikipediaより
この状況を見かねた中大兄皇子が飛び出たことをきっかけに2人も飛び出し、中大兄皇子が
入鹿の頭と肩を子麻呂が片脚を斬りつけました。
驚いた入鹿は皇極天皇に「私に何の罪があるのですか?お裁きください。」と訴えます。
それに中大兄皇子が「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしています。」と答えると、皇極天皇は大極殿の奥に退いていきました。
その様子を見た子麻呂と網田は入鹿を斬り伏せ、トドメを刺しました。
■その後2人の行方

天智天皇こと中大兄皇子/Wikipediaより
その後の網田の動向は残念ながら不明です。
しかし、子麻呂は645年に中大兄皇子に従い、蘇我氏の協力を受けていた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)とその子どもたちを、謀反を企てていたとして40人の兵を率いて攻め滅ぼしています。
そのまま中大兄皇子に仕え、病気になった後の天智天皇5年(666)に見舞いに来た中大兄皇子にこれまで従ってきた功績を褒められました。
これに満足したのか子麻呂は間も無く病没しています。
参考:長谷川ヨシテル『あの方を斬ったの…それがしです』2018年、ベストセラーズ
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