菅原道真像(Wikipediaより)
菅原道真が学問の神様と言われていること自体は非常に有名ですが、そもそも、なぜ彼が京都から遠い大宰府に行くことになってしまったのか、知っていますか?実は、彼は一種の政治争いに巻き込まれてしまったのです。
そこで今回の記事では、菅原道真が太宰府に流されることになった「昌泰の変(しょうたいのへん)」について詳しく解説していきたいと思います。
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■昌泰の変に関わる重要人物は?
昌泰の変に関わる人物としては、菅原道真、宇多天皇(昌泰の変が起きた時点では宇多法王)、藤原時平(ふじわらのときひら)、醍醐天皇(だいごてんのう)が挙げられます。
宇多天皇の次に天皇となったのが、醍醐天皇です。
■昌泰の変の背景
まず、宇多天皇は当時文章博士(もんじょはかせ:詩文と歴史とを教える立場)であった菅原道真をとても頼りにしていました。それは、少し前に起きていた藤原基経との政治争いである阿衡事件において、事を収めるために菅原道真が尽力したことも大きなきっかけでした。
しかし、宇多天皇が譲位し、醍醐天皇が次の天皇として即位します。

醍醐天皇像(Wikipediaより)
昌泰2年、菅原道真は右大臣になります。また、左大臣の座には、藤原時平が就きました。菅原道真自身は、ここまでの出世を望んでいなかったとも言われていますが、時平だけでなく、他の貴族からも彼を疎ましく思う意見はあったと言われています。
■昌泰の変の流れ
宇多天皇が出家したことを受けて、藤原時平は行動にでます。

『北野天神縁起絵巻』承久本(1219)巻五より藤原時平(出典:Wikipedia)
901年、彼は醍醐天皇に「菅原道真が自分の娘婿を醍醐天皇の代わりに即位させようとしている」と讒言(ざんげん:目上の人に対して、他人を陥れるために嘘・ありもしないことを告げること)します。
これを信じた醍醐天皇は、菅原道真を大宰府に左遷してしまいます。このときまだ若かった醍醐天皇。信じてしまうのも無理はないのかもしれません。宇多法王は、醍醐天皇に面会を求めましたが、宮廷に入ることはできませんでした。
■昌泰の変が起きたあと
昌泰の変により、菅原道真は大宰府に左遷されることになりましたが、道中、馬や食料などの配給はなかったと言われています。また、大宰府での生活も非常に厳しいものでした。配流から約2年後、彼は亡くなりました。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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