しかし、按針の他に西洋の武士がいたことはご存知だったでしょうか。
その人物は山科勝成(やましな-かつなり)、イタリア出身の武士とされる西洋人です。今回は山科勝成の日本での活躍や実在性についてご紹介します。
■張良や諸葛亮を超えた才能の持ち主
張良(左)と諸葛亮(右)/Wikipediaより
勝成は『御祐筆日記抄略』によると、天正5年(1577)に紹介状を持参し、蒲生氏郷に仕官を要求しました。
この時、勝成はロルテスと名乗っており、持ってきた紹介状には「軍人でありながら、地理や天文分野の知識が豊富で、かの張良や諸葛亮を上回る才能を持っている」との記載がありました。
こんな才知あふれる人物を放っておくわけにはいかず、氏郷は家中で議論した結果、仕官を許します。
その際に、名前をロルテスから「山科羅久呂左衛門(ろくろざえもん)勝成」に改めています。また、氏郷の元で火縄銃や大砲といった銃器の製作に従事しました。
■大砲を用いた活躍見せる

蒲生氏郷/Wikipediaより
勝成は武器の製作だけでなく戦場でも活躍し、天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いの前哨戦だった峯城攻略戦で5番目に首級を挙げました。
加えて、同戦いにおける加賀野井城攻略戦では大砲を使って落城に追い込み、逃亡する城兵の首級を挙げる活躍を見せています。
そして、この戦いの7日後には氏郷の家臣と共に武器を買うためにローマへ渡りました。勝成は2年半の時を経て、30丁の火縄銃を携えて帰国。これに満足した氏郷は勝成に500石を加増しました。
再び氏郷の元に戻った勝成は、天正14年(1586)の九州征伐に参加し、豊前国の巌石城攻略戦で大砲を用いて落城に追い込んでいます。
また、天正18年(1590)の小田原征伐にも参加し、鉄棍棒を使って小川新左衛門を討ち取る活躍をしました。
■難破した末の最後
その後、氏郷は文禄元年(1593)に朝鮮に出兵する軍艦建造のための船大工確保に向けて勝成をヨーロッパに派遣します。
しかし、勝成を乗せた船は途中で難破。ベトナムに到着するも、その地の現地人に殺害されました。
ちなみに、勝成の最後は『御祐筆日記抄略』に記載がなく、外務省が明治17年(1884)に編纂した『外交志稿』に残っています。
■実在が疑問視されている勝成

聖ヨハネ騎士団の旗/Wikipediaより
ここまで勝成の活躍や生い立ちを紹介しましたが、実際のところ勝成は実在していたのか疑問視されている人物であります。
その理由として、氏郷宛に勝成の紹介状を書いた人物が不明であること、大砲を用いた珍しい戦法を使ったのにも関わらず、他の史料に記録が残っていないなどがあります。
また、勝成の活躍を記載している『御祐筆日記抄略』の成立年は寛永19年(1642)。しかし、成立年には使用されていなかった言葉が使われているので、信頼性が薄くなっています。
そのため、数々の創作により、「本名はジョバンニ・ロルテスで、イタリアでは聖ヨハネ騎士団に所属し、イタリア人宣教師オルガンティノの護衛だった」設定が追加されています。
歴史に絶対はありませんので、浪漫に満ちあふれた山科勝成ことロルテスの実在を裏付ける発見があることを願ってしまいますね。
参考:安部龍太郎『信長になれなかった男たち 戦国武将外伝』2019年、幻冬舎
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