京都を流れる鴨川に架かる三条大橋。この地域の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、罪人の処刑や晒し首の舞台となった。






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三条河原での晒し首の様子



今回は、日本の長い歴史の中で三条河原に散った侍たちのエピソードをご紹介する。





三条河原が処刑場となった理由





三条河原が処刑場となった明確な理由はわかっていない。江戸期以前の日本では、罪人の処刑の際に全貌を広く公開することが一般的であり、古来から人々の往来が盛んであった三条河原周辺は罪人の見せしめに都合がよかったと考えられている。





また、室町時代の三条河原は遺体置き場としても利用されていたといわれ、そこから処刑場としても利用されるようになった可能性もある。





三条河原で処刑・晒し首となった代表的な人物





石川五右衛門



戦国時代に実在したといわれる盗賊。長らく実在が不明とされていたが、日本に滞在していた異国貿易商の資料に、石川五右衛門と三条河原における処刑の記述が確認された。






古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った幕末の志士や戦国武将たち【前編】
釜煎りにされる石川五右衛門(Wikipediaより)



五右衛門は京都や大阪などで盗みを働き、部下も多数従える盗賊団の首領であった。





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処刑までの経緯は明らかになっていないが、山科言経の日記「言経卿記」や、林羅山の「豊臣秀吉譜」には、1594年の8月に母親や仲間と共に油で釜炙りにされたと記載が残る。











豊臣秀次と縁故の人物約40名



豊臣秀吉の甥として関白職を譲られた人物である。当初、自分の後継者として秀次を擁立した秀吉であったが、1593年に実子である秀頼が生まれたことによって秀次の存在が邪魔になった。









古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った幕末の志士や戦国武将たち【前編】
豊臣秀次像(Wikipediaより)



1595年。明確な理由は明らかになっていないが、秀次は秀吉に対する謀反の疑いによって現在の和歌山県高野山に存在した青厳寺で切腹した。






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秀吉は秀次縁故の人物達もことごとく罰することで血筋の根絶を図る。秀次の妻子や妾、乳母、侍女に至るまで40名近くを三条河原で処刑。処刑の際には秀次の首が晒されたという。遺体は秀次の首と共に河原に埋められ首塚となった。





江戸期に入ると首塚は供養のために寺院が建立され、瑞泉寺として現在に至っている。






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