19世紀の日本といえば、鎖国によって長らく海外との交流が制限されていたため、ヨーロッパと比べて文化面や技術面における後進国だったというイメージが根強く残っています。
これは今でもヨーロッパの人々だけではなく、日本人でも漠然とそう考えている人が多くいます。
一方のヨーロッパは、産業革命などによって科学技術や工業が発展して社会基盤が整っており、洗練された文明国だったという印象を持つ人はたくさんいることでしょう。
しかしそうしたイメージや印象は、ほとんどが間違いです。技術的な違いこそあれ、日本、特に徳川幕府のお膝元である江戸においては、欧米諸国に引けをとらないインフラ整備が行われており、社会システムおよび教育システムがしっかり機能していたのです。
それは決して日本から見た「自国びいき」の視点ではなく、現に当時の欧米知識人も日本のそうしたシステムに驚嘆しています。
今回はそうした内容を見ていきましょう。
■驚くべき水道設備
当時の江戸の街のインフラでとくに注目に値するのは、水道設備です。
もともと江戸の地下水は塩分が多く、飲料として使うことはできませんでした。そこで、上水道の整備を計画したのがかの初代将軍・徳川家康です。
彼はまず井の頭池を水源とする水路を掘削させて、市中への給水を可能にしました。これが、玉川上水と並んで「二大上水」のひとつとされている、かの神田上水です。
神田上水の上部には、水を通すために懸樋(かけひ)という水道橋が架けられました。ここから運ばれた水が江戸の人々の飲み水となったのです。

神田上水懸樋跡(神田上水の掛樋跡)
その後も、人口の増加にともなって上水道は増やされていきました。江戸時代に整備された上水道の総延長は世界最大級の規模だったと言われています。
また上水道だけではなく、江戸では下水道も整備されていました。敷地区画の境界部分に下水溝がつくられ、雨水や生活排水は下水溝を通って堀・川から海へと流されていたのです。
特筆すべきは、この下水道は糞尿用には利用されていなかったという点でしょう。江戸の街の庶民の住居だった長屋のトイレは共同でしたが、小と大で区別され、どちらも農村の肥料としてリサイクルされていました。よって排泄物は下水道から海へ投棄されることはなかったのです。
現代風の言い方をすれば、当時は環境に優しい、エコなリサイクルシステムが採用されていたということになるでしょうか(もっとも糞尿を利用していたため、畑の野菜を生で食べる習慣は根付かなかったなどのデメリットもありました)。
幕末に日本を訪れたペリーは、この上下水道システムに対して「アメリカよりも進んでいる」と驚嘆の声を残しています。
■英外交官もびっくりの街道
また江戸時代は街路や街道もきちんと整備されており、そのおかげで人や物・情報の流れもスムーズでした。
例えば東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道のいわゆる五街道は、江戸時代中期に整備されたものです。これらの街道には宿場町が置かれ、旅人や物資の送り継ぎポイントとして機能していたのはご存じの通りです。
当時、お伊勢参りなどの旅行ブームが起きたのも、道路網が整備されていたからこそだと言えるでしょう。
こうした社会システムの整備は、現代人の私たちにとっては当たり前ものです。しかし、幕末に日本を訪れた外国人からすれば、ここまできちんとインフラ整備が行われているのは驚嘆に値することでした。
イギリス人外交官のオールコックは、滞在記の中でこう述べています。

熱海温泉の「オールコックの碑」
「よく手入れされた街路は、あちこちに乞食がいることを除けばきわめて清潔で、汚物が積み重ねられて通行をさまたげるというようなことがない」
「これは私がかつて訪れたアジア各地やヨーロッパの多くの都市と、不思議ではあるが気持ちのよい対照をなしている」。
■識字率をめぐって
ここまでは当時の日本の社会インフラのことを説明しましたが、それでは教育インフラについてはどうでしょうか。
これは有名な話ですが、当時、教育インフラが全国に広まっていたことについても外国人たちは驚嘆しています。
西洋を圧倒!江戸時代に日本が世界屈指の「識字率」を誇っていた理由とは?

トロイ遺跡の発掘で有名な、『古代への情熱』の著者でもあるシュリーマンは慶応元年(1865)に来日していますが、この時、学習塾である江戸の寺子屋を視察してこう述べています。

江戸時代の寺子屋の風景(Wikipediaより)
「自国語を読み書きできない男女はいない」。
ただ、実際には簡単な読み書きしかできない者が多く、現在では「昔からの日本人の識字率の高さ」については疑問が持たれているのも事実です。その点は、私たちはこれまで過大評価してきた傾向があったかも知れません。
ただ、それはそれで、過大評価の反動としてまた極端に過小評価する説(日本の識字率は非常に低かった、など)が出てくる可能性もあり、そのあたりの真偽については今後の研究の成果を待ちたいところです。
ともあれ、徳川時代からある程度の教育インフラが整備されていたことは間違いなく、それが明治政府の教育政策の基礎になっていったと言えるでしょう。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan