【前編】では、それらの違いや、国や宗教によっては身に付けていると「死後も地獄に落ちない」などの意味があったり、生きた魂を解放する「自由の象徴」として愛されていたることをご紹介しました。
人を喰らう巨大な骸骨の妖怪「がしゃどくろ」は奇想の絵師・歌川国芳が生みの親だった!【前編】
そして【後編】では、日本には巨大な骨の妖怪「がしゃどくろ」がいること、江戸時代の人気浮世絵師・歌川国芳の作品が「がしゃどくろ」の誕生に大きな影響を与えたことについてご紹介しましょう。
■無念・怨念・飢餓……が集まり巨大化した「がしゃどくろ」

巨大な髑髏の妖怪「がしゃどくろ」(ukiyoestock)
「がしゃどくろ」とは、戦死したり野垂れ死したりして、誰にも埋葬をされることなくそのまま遺体が朽ちて骸骨になった数多くの者たちの無念・怨念・飢餓などが集まり、巨大化な骸骨となった妖怪。
「がしゃどくろ」という名称は、夜中になると巨大な骸骨がガシャガシャと骨と骨がぶつかり合う音を響かせながら街中を徘徊し、生きている人間を発見すると握りつぶしては喰らっていることから、その名前が付けられたそうです。
また、飢えに苦しみつつ死んでいったので、骸骨になった今でも飢餓感に支配されて人を襲うところから「餓者髑髏」とも呼ぶ……という説もあります。
いずれにしても、巨大な骸骨が真夜中に歩き回っている姿を想像するだけでも恐ろしいですよね。
古くから日本各地に伝わる妖怪伝説に登場する妖怪とは違い、この「がしゃどくろ」の歴史は意外と浅く昭和中期の頃だそう。
ただ、江戸時代の浮世絵師・歌川国芳が描いた髑髏の作品が影響を与えて「がしゃどくろ」の誕生のきっかけになった……といわれています。
■数百の骸骨たちを一体の巨大な骸骨にした歌川国芳

歌川国芳「相馬の古内裏に将門の姫君瀧夜叉妖術を以て味方を集むる大宅太郎光国妖怪を歌川国芳『相馬の古内裏』(1845年 – 1846年頃)がしゃどくろを描いたものではないが、巨大な髑髏である点から、がしゃどくろのイメージとして初期から使用されて来た。(wiki)
歌川国芳(うたがわくによし)は、江戸時代末期の浮世絵師です。
江戸時代には名だたる有名な浮世絵師がたくさんいますが、なんといっても歌川国芳の特徴は、斬新で奇抜な発想力やデザイン力でしょう。
日本美術史上の「奇想の絵師」ともいわれ大胆でユーモラスなその作品は現在でも多くの人に愛されています。
12歳から浮世絵を始めたものの、ようやくその才能が認められたのは30歳を過ぎた頃。
中国の「水滸伝」を題材にした極彩色の作品が大ヒントして世の中にその名が広まったのです。
そんな歌川国芳の中でも有名なのが、巨大な骸骨が登場する『相馬の古内裏』でしょう。
この浮世絵の左側に登場しているのは、平将門の娘といわれている伝説上の妖術使い「滝夜叉姫(たきやしゃひめ)」。
そして中央で戦っているのは姫の忠臣(弟ともいわれる)・荒井丸。荒井丸をねじふせているのが源頼信の家臣・大宅太郎光圀という迫力のある構図になっています。

滝夜叉姫(楊洲周延画)(wiki)
相馬の古内裏とは、下総相馬にあった将門の政庁の廃屋のことで、父の遺志を継いで謀反を企てようと滝夜叉姫が妖術を使って味方を集めた場所のことです。
象徴的なのは、戦っている背後から身を乗り出すように覗き込んでいる、巨大な髑髏の姿。
江戸時代に山東京伝による読本『善知安方忠義伝』(うとうやすかたちゅうぎでん)を題材にした作品なのですが、読本では数百の骸骨が戦闘を繰り広げることになっています。
それを、歌川国芳は家屋の中の御簾を引きちぎるほど巨大な一体の髑髏として登場させたのです。
当時の江戸っ子たちはこの迫力満点の髑髏にさぞかし驚いたのではないでしょうか。
■江戸時代の巨大な髑髏は現代にも引き継がれる

境港市の水木しげるロード「がしゃどくろ」のブロンズ像(wiki)
歌川国芳のこの巨大な髑髏は江戸から昭和へと伝わり、「がしゃどくろ」の誕生に影響を与えました。
「がしゃどくろ」は古来からある妖怪とは違い、1966年(昭和42年)~1968年(昭和44年)間、社会現象を起こした巨大怪獣ブーム期に創作された妖怪といわれています。
しかしながら 怪奇系児童書作家の佐藤有文や日本の漫画家である水木しげるの作品にも、巨大な骸骨「がしゃどくろ」が登場し、歌川国芳の「相馬の古内裏」の中の巨大な骸骨がイメージソースになったといわれているのです。
「がしゃどくろ」は、ゲゲゲの鬼太郎や平成狸合戦ぽんぽこなどにも登場しています。
実際にこんな巨大な髑髏が登場したら恐ろしいのですが、どこか切ないのは一人寂しく看取られることもなく、野晒しになってしまったたくさんの髑髏が集まった……という哀しい誕生秘話にあるからでしょうか。
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