江戸時代。将軍家の子女や女中が暮らす大奥には厳しい規律が存在し、規律を乱したり規則を破ったものには容赦ない罰則が与えられた。






今回は、江戸時代中期に起き、大奥の歴史の中でも大きな粛清事件へと発展した「江島生島事件(えじまいくしまじけん)」をご紹介する。





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門限を破っただけで27年の幽閉および1500人が処罰!江戸時代の大奥粛清事件「江島生島事件」






門限を破っただけで27年の幽閉および1500人が処罰!江戸時代の大奥粛清事件「江島生島事件」
新選東錦絵 「生島新五郎之話」画:月岡芳年(都立中央図書館特別文庫室所蔵)



中心人物①大奥女中・江島(絵島)えじま





江戸時代中期、江戸城大奥に存在した女中。本名はみき。甲府徳川家に仕えていたが、藩主・徳川綱豊が江戸幕府6代将軍・徳川家宣となったことをきっかけに江戸城大奥入りする。





後に江戸幕府7大将軍・徳川家継を産むことになる家宣の側室・月光院に仕え、御年寄(大奥の中でも2番目に高い地位であり、将軍や御台所との謁見が可能)として月光院を支えた。





中心人物②歌舞伎役者・生島新五郎(いくしましんごろう)





江戸時代中期の歌舞伎役者。当時の歌舞伎界を代表する人気役者であった。1671年に大阪に生まれる。その後、江戸の木挽町(現在の銀座周辺)に存在した歌舞伎劇場・山村座の舞台に立つ。





当時の木挽町は芝居が盛況な街であり、山村座は「木挽町三座」と呼ばれ幕府公認の劇場として大いに賑わった。





門限を破っただけで27年の幽閉および1500人が処罰!江戸時代の大奥粛清事件「江島生島事件」
事件当時の江戸幕府7代将軍・徳川家継(Wikipediaより)



事件のあらまし





1714年2月。大奥御年寄であった江島ら女中一行は、月光院の名代として亡き6代将軍・家宣の墓参りに寛永寺と増上寺を訪れる。
その帰路、木挽町の山村座に立ち寄り歌舞伎役者・生島の芝居を観た。





芝居の後、江島らは生島ら歌舞伎役者を茶屋に招いて宴会を開いた。しかし、宴会が盛り上がったことで江島らは大奥の門限に遅れてしまう。





江島は大奥の広敷向前(大奥の事務を管理する役人がいる役所。現在の警備室のような位置付けで通用口に繋がる)で役人と問答になり、後に問題となる。江戸幕府はこの事実を重く受け止め、幕府裁判機関である評定所審理とした。











事件後の処罰





事件は評定所によって徹底的に調べられ裁定が下された。





【江島】
評定所は江島に島流しの裁定を下したが、月光院の減刑嘆願により信濃高遠藩(現在の長野県伊))の内藤清枚の元にお預けとされた。江島は外部と完全に隔離された屋敷に幽閉され、食事や身なりなど、すべてを厳しく制限された生活を送った。幽閉生活は実に27年間に及んだ。





関係者も厳しい処罰の対象となり、旗本の異母兄・白井平右衛門勝昌は斬首、弟の豊島常慶は重追放の処分を受けた。江島と同行した女中陣や関連を疑われるものを合わせると、1500名程度が処罰の対象とされたという。






【生島】
生島自身は三宅島に流罪。山村座座元の五代目山村長太夫も伊豆大島への遠島となり、山村座は廃座。72年間の歴史に幕を閉じた。





江戸中の芝居小屋も風紀を乱すという理由で処罰の巻き添えを食い、改築や営業の短縮などの憂き目にあった。事件の連座者は最終的に50名近くに及んだという。





門限を破っただけで27年の幽閉および1500人が処罰!江戸時代の大奥粛清事件「江島生島事件」




江島と生島の関係





2名の間には密会・密通説が流れた。2人は激しい拷問にかけられ、生島は関係を自白したが、江島は最後まで否認を貫き自白することはなかったという。





結果的に2人の間の男女関係は証明されることはなく、真相はわからない。











陰謀説





江島生島事件に関しては様々な陰謀説がある。当時の大奥の門限は一般的に16時とされていたが、将軍や御台所、側室の名代としての外出は18時が門限とされており、江島自身は門限を破っていなかった可能性がある。(お付きの女中が門限を過ぎていた事を理由に咎められた)





江島への嫌疑は強引という見方もあり、江島や月光院勢力に対して反感を持っていた幕府上層部や、家宣の正室・天英院勢力による陰謀説も囁かれているが証拠はない。





門限を破っただけで27年の幽閉および1500人が処罰!江戸時代の大奥粛清事件「江島生島事件」




その後





江島は1723年に赦免が認められ、以降は屋敷の周辺地域における外出は認められたという。
1741年に死亡。享年61。大奥での出来事は生涯口にしなかったという。





生島は1742年に赦免され、江戸へ帰還。翌年73歳で没した。





大奥と歌舞伎の世界で栄華を極めた2人だったが、たった一度の不祥事で人生を大きく歪められた末の最後だった。



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