天下人・豊臣秀吉は自身の後継である秀頼が成人するまでの間、有力な五人の大名の合議制を採用して政権の安定を図った。徳川家康・宇喜多秀家・上杉景勝・前田利家・毛利輝元・小早川隆景(小早川は後に死亡したため省く)からなる側近は「五大老(ごたいろう」と呼ばれた。






豊臣政権下での活躍が目立った五大老であったが、秀吉の死後、その明暗は大きく別れることになる。





今回は五大老に任じられた五人の大名の運命をご紹介する。





五大老の序列





五大老が制度化された1598年、秀吉はすでに死の淵にあった。五大老に任命された五名の大名たちはいずれも高い権力を有していたが、中でも「徳川家康」は石高・官位共に頭ひとつ抜きんでており、五大老筆頭と目されていた。





家康に次いで存在感を示していたのは加賀を手中に収め、家康に次ぐ官位を持つ「前田利家」。利家は秀吉との関係性が強く、個人的な信頼を獲得していたといわれる。





残りの三名は官位が等しかったが、石高では中国地方を手中に収める「毛利輝元」と会津の「上杉景勝」が「宇喜多秀家」を圧倒したが、のちの関ヶ原に至る経緯をみると毛利輝元の地位が高かったように伺える。





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五大老の筆頭「徳川家康」(Wikipediaより)









秀吉死後の対立





秀吉は家康に政務、利家に秀頼の傅役を任せ1598年の9月に死亡した。しかし、秀吉の信頼が厚かった利家が翌年の4月に病没すると、家康の越権行為とも取れる行動が目立ち始める。





秀吉の遺命を無視し大阪城に入城、大名同士の私的な無断婚姻や石高の加増などがそれに当たり、石田三成を中心とした秀吉に中世を誓う諸将との間に溝ができ始める。





秀吉の死後、家康は徳川の天下統一に対する意思を明確にしていた節があるが、表向きは豊臣の家臣として逆賊から秀頼を守るいう体裁を保っており、あくまでも豊臣政権維持のために行動する旨を公言していた。





運命を分けた関ヶ原!戦国時代の天下人・豊臣秀吉を支えた5人の大名「五大老」たちの明暗
家康の対抗馬とされていた五大老「前田利家」(Wikipediaより)



関ヶ原へ





1600年に起こった関ヶ原の戦いは「豊臣」と「徳川」の争いと思われがちだが、名目上は豊臣家臣による内輪もめであり、「徳川」と「反徳川」の戦いといった趣が強かったと考えられている。






家康の対抗馬とされていた前田利家が1599年に死亡すると、変わって「石田三成」が反徳川の急先鋒となる。しかし三成には、過去の朝鮮出兵や豊臣秀次粛清の件で豊臣政権内に反発勢力が一定数存在しており、反徳川として豊臣家臣団を一枚岩に結束できる求心力はなかった。





日本は徳川に味方する「東軍」と、反徳川で結成された「西軍」に別れ決戦となる。この頃になると五大老体制は崩壊しており、前田家は徳川方へ、残りの三家は反徳川方へ加担している。





この判断が、後の五大老に列席した大名たちの運命を分けることとなった。





「五大老」は、秀吉亡き後、大名同士の権力争いと共に瓦解した。五大老に名を連ねた五つの名家は、関ヶ原の大戦の末に大きくその明暗を分けることとなる。











「五大老」それぞれの運命





五大老に列席した五つの大名家の関ヶ原以降のありようをみていきたい。





運命を分けた関ヶ原!戦国時代の天下人・豊臣秀吉を支えた5人の大名「五大老」たちの明暗
関ヶ原合戦図屏風(Wikipediaより)



徳川家



関ヶ原の戦いで「東軍」の総大将となった家康は、大戦に勝利したことで実質的な日本の支配権を手に入れた。1603年に江戸幕府を開府。1615年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると名実ともに天下を統一した。以後、幕府の将軍職は15代に渡り徳川宗家の世襲制となり、265年間に及ぶ江戸時代を完成させた。






前田家



関ヶ原の戦いの直前、利家から家督を譲られていた利長は、徳川家に実母を人質に送ることで家康の信任を得ることに成功した。関ヶ原では「東軍」に味方し、徳川政権下では領地を加増され加賀・能登・越中120万石に迫る大大名家となり、「加賀藩」の礎を築いた。





毛利家



「西軍」の総大将に担ぎ上げられ敗戦を迎えた毛利家は、戦後の減封により本来の所領であった120万石から周防・長門2ヶ国の約30万石へと大幅な領地削減を余儀なくされた。
その後は「長州藩」として江戸期を迎える。幕末には倒幕運動の中心となり多くの維新志士を生んだ。











上杉家



徳川家と対立して「西軍」に与した。戦後は家康と謁見し謝罪したことで藩の存続を許され、出羽国を中心に30万石の所領を与えられる。軍神と謳われた先代・上杉謙信が健在であった頃の所領は150万石ほどといわれており、結果的に景勝は一代で上杉家の領地を大幅に減少させてしまった。幕藩体制下では「米沢藩」として幕末まで存続した。





宇喜多家



備前国の当主であった宇喜多家。大名として最後の当主であった秀家は秀吉に育てられ、五大老にまで上り詰める。最盛期は58万石近くの所領を保持し宇喜多家の全盛期を築いたが、関ヶ原の戦いで徳川家に敗れ秀家自身は八丈島に流罪となり同地で生涯を閉じた。

1616年の改易によって大名としては滅亡したが、直系の血筋は現在も続いている。





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江戸城登城風景図屏風(Wikipediaより)



豊臣から徳川へ





豊臣秀吉から信任を得て栄華を極めた五家であったが、結果的に宇喜多家は大名家として滅亡し、残りの三家は徳川家の傘下に入ることで決着をみた。





弱肉強食の時代とされる戦国にあって、滅亡していった大名家や武家は数知れない。これより約270年後に江戸幕府は滅亡する。





その際に主力として明治政府成立に尽力した藩が、関ヶ原で辛酸を舐めさせられた大名家であった事実には、大いなる歴史の流れを感じざるを得ない。



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