二十年以上前の教科書では、935(承平5)年に平将門の乱が起こったとされていますが、近年ではこの考え方を採らなくなりました。
この出来事の実像に関する理解が深まったことで、「乱」が発生した起点の捉え方も変わってきているのです。
大手町にある将門塚
まず押さえておきたいポイントは、平将門の乱には承平・天慶の乱という別の表現があることです。
これは承平から天慶年間にかけておこった地方の騒乱を一括りにしたもので、西の藤原純友の乱と東の平将門の乱、その他地方の乱(中部や東北での乱)を大きく捉えて表現しています。
狭義には承平・天慶の乱は藤原純友の乱と平将門の乱の二つを示していると言えるでしょう。
ところで、平将門の乱は「将門記』によって説明されている部分が大きく、それによると将門は朝廷に反旗をひるがえし、国司を襲って新皇を称し、関東独立王国を創設しようとしたとされています。
平将門が新皇と称したのは、もともと平氏は桓武天皇の子孫(将門は桓武天皇の5世にあたる)だったからです。
さて、これを踏まえて、平将門の乱は大きく二つの局面から捉えることができます。
第一の局面は一族の紛争、そして第二の局面が朝廷に対する反抗です。
■伯父との紛争は「乱」ではない
まず第一の局面について。まず前提として、この時期は所領の継承に関しては、子による相続よりも兄弟による相続のほうが根強く残っている時期でした。
で、平将門の父の死後、その所領が将門の伯父である国香たちに分割されたらしく、それに対する不満から、伯父・甥の争いが起こったのです。

築土神社所蔵の平将門像(Wikipediaより)
これについては、朝廷が伯父側からの提訴を受けています。しかしこの段階では、将門の行為は政府に対する反乱であるとは捉えられておらず、あくまでも地方における私闘と理解さていました。
将門が国香を倒したのが935年のことです。
こうして見ていくと、935年をもって朝廷に対する平将門の乱の始まりの年だとするのはおかしいことになります。
■国司を襲った理由は?
そして第二の局面です。939年、将門は国司を襲撃して新皇を名乗ったとされています。しかし、事はそう単純ではありません。
そもとも、なぜ将門は国司を襲ったのでしょうか。

平将門の像
現在五十代の方で、子供の頃に読んだ人も多いと思われる『学習漫画「日本の歴史」』という本があります(考証・解説和歌森太郎、作画カゴ直利、集英社)。
これによると「都にのぼって検非違使になろうとしたが、田舎者扱いされて拒否された」ため、恨みをのんで関東にもどって乱を起こした、と書かれています。
しかしこれは『神皇正統記』や、その影響を受けたと思われる『日本外史』などに見られる逸話で、信憑性に欠ける物語です。
さらにNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』では、周囲の豪族たちに担ぎ上げられた(新皇に祀り上げられた)将門という演出も見られました。
しかしこのあたりも想像の域を出ません。
【後編】の記事はこちら↓
935年勃発説は時代遅れ!?「平将門の乱」が起きた本当の理由と最新の学説を紹介【後編】

参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan