【前編】では、935(承平5)年に勃発したとされている、いわゆる平将門の乱が発生するまでの経緯を見てきました。
935年勃発説は時代遅れ!?「平将門の乱」が起きた本当の理由と最新の学説を紹介【前編】
その第一の局面とされる争いは、朝廷に対する「乱」とは言えないことが分かったと思います。
日本史を学習していると、地方の武士はアウトロー(無法者)で、貴族の手に負えない存在だったと説明されがちです。
しかし地方で争乱が起きると武士たちは都に訴え、その裁決を受けて従うことも少なくありませんでした。
現に、平将門も【前編】で説明した一族間の紛争では、朝廷からの召喚に応じて検非違使の尋問も受けています。
武士の世界には原則として自力救済の慣習があったものの、10世紀の段階では、武士に対する朝廷の裁決は有効なものだったことがわかります。

将門山古墳(茨城県坂東市)
では、彼が国司を襲って新皇を名乗ったとされる第二の局面についてはどうでしょうか。
将門は桓武5世であり、父が鎮守府将軍でもあります。さらに、一族の紛争を実力で勝ち取った名望と実績のおかげで、彼は自力救済の力をもたない武士たちの調停者として頼られる存在となったのでした。
こうした経緯を背景として、いわゆる平将門の乱の第二の局面を招くことになります。
■汚職役人から訴えられる
当時は、都から国司が派遣されると検注が行われるのが一般的でした。検注とは、簡単にいうと税の徴収のための土地調査です。とても嫌ですね。
さてこの検注を受けるにあたり、地元の人々は、赴任してきた国司に賄賂を贈るのが慣例でした。
ただ、そればかりではありません。都から赴任した国司(守)と、地元の有力者や土地の開発領主としての武士たちは、この検注の手続きを進める中で協力できる場合もあれば対立・紛争に至る場合もあります。

平将門の首塚
問題が発生したのは、938(承平8)年に武蔵権守として興世王という人物が赴任してからのことでした。この人物は、着任早々検注を実施して賄賂を要求したため、地元の有力者と対立して紛争に発展してしまったのです。
これを調停しようとしたのが平将門です。この頃の将門は、関東地方のいわば顔役のような存在でした。そしてこれが原因で939年に将門は謀反人として訴えられています。
では、これこそがいわゆる平将門の乱の起点か? と考えたくなるところですが、そうとも言えません。なぜならこの時、将門は事実無根を都に訴えており、朝廷はそれを認めているからです。
■三度目でついに謀反人扱い
さらに将門は、同年に常陸の豪族と常陸の役人との対立を調停し、地元の有力者に味方して役人を都に追い返しています。
これによって再び常陸介から謀反を訴えられ、今度は将門に不利な裁決が出ました。
そこで将門は関東の国府を襲い、都から派遣されていた役人を次々に追放しました。
公的な意味での「乱」と言えるのは、この国府襲撃だと言えるでしょう。
将門にすれば、これは自らによる調停の結果であり、国司の横暴を自力救済し、地元の人々の利にかなう役人を自ら任じたつもりだったのかも知れません。

平将門の像
また、この「乱」の中で彼は新皇を称していますが、これは必ずしも都の朝廷にとってかわり、全国制覇を目指したわけではなかったと考える研究者もいます。
彼が新皇と称したのは、将門が「守」や「介」に任じられた人物を朝廷に追認させるためのデモンストレーションだったという考え方です。
このように見ていくと、従来、平将門の乱と言われてきたものはほとんどが「乱」と言えるものではなく、そのことは公的にも認められていたと言えるでしょう。
参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
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