病については諸説あり、当時の流行り病いであろうと考えられています。
そんな中、藤原行成の日記『権記(ごんき)』に意外な記録が残されていました。
果たして宣孝の生命を奪った病とは、いったい何だったのでしょうか。
■宣孝の死因はまさかの痔(ぢ)!?
冷泉為恭「冷泉為恭筆藤原行成像」……痔の申告を受けて、どんな反応をしたのだろうか。
……右衛門権佐宣孝朝臣又申痔病発動之由……右衛門(うゑもん)とは、内裏の門を守る左右衛門府の一つ。権佐(ごんのすけ)とは定数外(権)の副官(佐)です。
※『権記』長保3年(1001年)2月5日条
【意訳】右衛門権佐である藤原宣孝朝臣が病を申し出てきた。どうやら痔(ぢ)が再発したらしい。
朝臣(あそん)とは朝廷に仕える臣を指し、一般的には位階と官職を受けている者が該当します。
又申(また、もうす)とあるので、以前にも痔の発症(ここでは発動)を申告したことがあるのでしょう。それで再発と意訳しました。
語尾の之由(~のよし)とは「だそうだ」のようなニュアンスであり、行成が直接申告を受けた訳ではなく、部下からそのように報告を受けたのでしょう。
当時の宣孝は長徳4年(998年)ごろに紫式部と結婚、翌長保元年(999年)から同2年(1000年)にかけて多忙な日々を送っていました。
宇佐神宮(うさじんぐう)の奉幣使として出張したり、平野臨時祭の勅使を務めたり、相撲節会(すまいのせちえ)に列席したり……。
長保元年(999年)ごろには紫式部との一人娘である藤原賢子(けんし/かたいこ。大弐三位)も生まれており、ますます励んだのかも知れません。
(ただし紫式部以外に妻が三人、確認できるかぎりで5~6人の子供がいました)
激務に追われた無理が祟ったのか、宣孝は痔を発症。何とかごまかしながら働いていたら、いよいよ深刻化してしまったようです。
痔の発症から約2ヶ月後、長保3年(1001年)4月25日に宣孝は世を去ってしまったのでした。
宣孝の死因が痔だったのか、あるいは他の病気だったのかについてはハッキリ記されていません。
しかし深刻な下血があったのは確かなようで、症状の似ている大腸がんなどの可能性も考えられます。
このころ紫式部は20代後半から30前半、娘の賢子はまだ2~3歳。一人娘を抱えながら、紫式部は悲しみに暮れたことでしょう。
■終わりに

「痔で亡くなったとか……」宣孝の死を悼む人々(イメージ)
かくして宣孝と死に別れた紫式部。
その悲しみを癒し、向き合いながら生きていくために、かの『源氏物語』が書かれたと言われています。
宣孝との夫婦生活は必ずしも円満ではなかった、というよりむしろ嫉妬と喧嘩ばかりでしたが、それでも大切な夫でした。
そのことを偲ばせるよすがとして、言い寄る男を拒絶した和歌も伝わっています。
なお一人娘の賢子は母に似ず恋愛上手だったようで、恐らく宣孝に似たのでしょうね。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、宣孝の最期がどのように描かれるのか、とても興味深いところです。
※参考文献:
- 『権記』国立公文書館デジタルアーカイブ
- 岡本梨奈『面白すぎて誰かに話したくなる 紫式部日記』リベラル新書、2023年11月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan