平安時代、娘たちを次々と入内させて権力を握った藤原道長。

道長は正室・源倫子との間に4人の娘を授かり、彼女たちが道長を権力の座に導いたと言えるでしょう。


長女・藤原彰子(しょうし/あきこ)
次女・藤原姸子(けんし/きよこ)
三女・藤原威子(いし/たけこ)
六女・藤原嬉子(きし/よしこ)
※四女と五女は側室の源明子が出産。

今回は三番目の藤原威子を紹介。果たして彼女はどんな女性で、どのような生涯をたどったのでしょうか。

■後一条天皇に入内する

父親の権力の道具に…藤原道長の三女・藤原威子とはどんな女性だ...の画像はこちら >>


藤原威子(イメージ)

藤原威子は長保元年(1000年)12月23日に誕生しました。

13歳となった長和元年(1012年)に裳着(もぎ)を行って成人し、尚侍(ないしのかみ。内侍所の長官)に任官します。同年のうちに正四位下、従三位へと昇進しました。

長和2年(1013年)になると従二位へ昇り、寛仁元年(1017年)には御匣殿別当(みくしげどのべっとう)を兼任します。

御匣殿とは天皇陛下のお召し物(御衣装箱)担当で、別当はその長官です。

天皇陛下のお召し物をお世話するということは、脱ぐこともある訳で、この職は半ば愛人枠(妻候補)という意味もありました。

そして翌寛仁2年(1018年)3月に甥の後一条天皇(一条天皇と姉・彰子の皇子)へ入内します。

威子は後一条天皇より9歳年長で、彼女はこの年齢差を恥じらったと言いますが、父・道長の意向とあれば仕方ありません。


4月に女御(にょうご)となり、10月には正室である中宮(ちゅうぐう。皇后陛下)に立てられました。

■道長の絶頂を見届ける

これによって、道長は三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて自分の娘で占める前人未到の偉業?を達成したのです。

皇后……三女・威子(後一条天皇)
皇太后……次女・姸子(三条天皇)
太皇太后……長女・彰子(一条天皇)

もはや道長には、一族でさえ誰も敵いません。権力の絶頂に昇りつめた道長は、この年の月見であの歌を詠んだのでした。

父親の権力の道具に…藤原道長の三女・藤原威子とはどんな女性だったのか【光る君へ】


我が世の春を謳歌する道長。『紫式部日記絵巻』より

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば

【意訳】この世界は私のものだと思う。完全無欠な満月の如き、この私の……。

道長の高笑いが聞こえて来そうですが、肝心の威子は男児に恵まれず、授かったのは章子内親王(しょうし/あきらこ)と馨子内親王(きょうし/かおるこ)のみ。

それぞれ章子内親王は後冷泉天皇、馨子内親王は後三条天皇の中宮となりましたが、その後血統は絶えてしまうのでした。

やがて長元9年(1036年)4月に後一条天皇が崩御されると、威子はに同年9月4日出家。その2日後9月6日に38歳という若さで崩御されたのです。


■終わりに

今回は藤原道長の三女・藤原威子について、その生涯をたどってきました。

父親が権力を握るための道具として内裏へ送り込まれた威子ですが、夫の後一条天皇と幸せな時を共にすることもあったのでしょうか。

果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では誰がキャスティングされるのか、今から楽しみですね!

※参考文献:

  • 服藤早苗ら編著『藤原道長を創った女たち〈望月の世〉を読み直す』明石書店、2020年3月

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