日本史上唯一、天皇を暗殺させた人物。それが蘇我馬子(そがのうまこ)です。
斑鳩寺蔵『聖徳太子勝鬘経講讃図』の蘇我馬子(Wikipediaより)
馬子による、有名な崇峻天皇暗殺の経緯は『日本書紀』によると次の通りです。
彼は、朝廷の内乱に勝利して権力を確立すると、甥の崇峻天皇を即位させて政治の実権を握りました。しかし崇峻はお飾りの天皇であることに満足できなかったとされています。
そしてある日、天皇は献上されたイノシシの亡骸を見て、「いつかこのイノシシのように、憎い相手の首を斬り落としたいものだ」と口走りました。
この発言を知った馬子は、自分が天皇から命を狙われていると危険を察知。そこで儀式の席上、部下に命じて独断で天皇を殺害したのです。

崇峻天皇陵という説がある藤ノ木古墳(奈良・斑鳩)
こうしたストーリーに基づき、馬子は独断で天皇殺害という歴史上未曾有の事件を起こしたとんでもない人物としてイメージされてきました。いわばこれが従来の「通説」だったわけです。
しかし現在、この通説は否定されています。天皇殺害は馬子が一人で企んで実行したわけではなく、有力豪族たちの合意のもとで実行されたと考えられているのです。
つまり馬子一人が独断で暗殺計画を立てたのではなく、今の法律の用語で例えるなら共同謀議があったということですね。
今回は、そうした現在の通説についてみていきましょう。
■政局に混乱なし
崇峻天皇暗殺において、豪族たちの共同謀議があったという説には、ちゃんとした根拠があります。
それは、崇峻死後の朝廷の反応です。天皇殺害という大事件が起きたにもかかわらず、政局に大きな混乱が生じていないのです。
だいたいこの事件は、暗殺されたその日のうちに崇峻が埋葬され、暗殺からほとんど間を置かずに推古天皇が即位するなど、突発的な事件にしてはやたらと後処理がスムーズなあたりが不自然なのです。

推古天皇(Wikipediaより)
最初から、全体の総意のもとで暗殺が実行されたとしか考えられません。
とはいえ、臣下が結託して天皇を暗殺したと言われても、にわかには信じがたい人も多いでしょう。
しかしこの頃は、天皇は有力豪族の合議制で決まるのが常識であり、一人の権力者がゴリ押ししたからといってそれが通るとは限らなかったのです。
よって崇峻の場合も、蘇我氏の後押しだけでなく有力豪族の合意があったからこそ即位できたと考えるべきで、天皇が豪族たちの意をくまずコントロール不可能になっていたとすれば、暗殺されたとしてもおかしくはありません。
■蘇我一族滅亡の真相
では、崇峻が暗殺された理由は何だったのでしょうか。それは、朝廷をとりまく環境に緊張が生じていたからだと考えられます。
崇峻が即位した翌々年には隋が大陸を統一し、巨大国家が出現していました。隋は朝鮮半島の高句麗に軍を送るなどしたため、朝廷も隋を警戒し北九州に軍を派遣しています。
また国内でも蘇我氏に敵対する勢力がくすぶり続けており、朝廷は軍事的・政治的に安定していませんでした。まさに内憂外患です。
崇峻のもとではこの状況に対処できないとして暗殺されたのだと考えられます。
ちなみに蘇我氏が関係している暗殺事件といえば、後の蘇我入鹿の暗殺事件も有名ですね。
しかしこれも、従来の「蘇我氏が権力者として横暴に過ぎたため暗殺された」という説明は、現在では否定されています。
従来は、蘇我馬子の息子である蝦夷と、孫の入鹿の代で蘇我氏は専横を極めて人々に恐れられた、だから殺された——とされてきました。教科書や解説書ではおなじみの記述です。

奈良明日香村・飛鳥寺「入鹿の首塚」
しかし、『日本書紀』にあるように蘇我氏は独裁者として横暴だったから滅ぼされたのではなく、政治の方向性の違いから葬られたというのが現在の考え方です。
この時期は大国・唐の成立を受け、日本では中央集権化が図られていました。蘇我氏が実施したのは、天皇をたてつつ裏で蘇我氏に権力を集中させる統治法でした。
対する中臣鎌足が目指したのは、官僚制を基にした中央集権体制であり、有力な皇族のもとに豪族が政務を補佐する統治法でした。こうした理想を実現するべく、蘇我氏は滅ぼされたとされているのです。
これについては明確な結論があるわけではありませんが、「蘇我一族に権力が集中したため滅ぼされた」という単純なストーリーでは説明不足だと考えられているのは間違いありません。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia
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