平安時代の化粧って、現代の感性ではちょっと、ぎょっとしますよね。

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源氏物語(ウィキペディアより)

国風文化といい、化粧は能面に表されるように、眉を剃って一段高い場所に太い眉を描く風習が生まれました。
太いというか、ほぼ楕円ですね。

平安時代の女性はなぜ眉を抜き、高い場所に描いたのか?そこには平安貴族の倫理観と美意識が!


「能」のイメージ(photo-ac)

それまでの化粧は唐風といわれ、花鈿(かでん)、靨鈿(ようでん)といわれるポイントメークや、弓なりの眉など華やかな雰囲気でした。キトラ古墳など飛鳥文化の壁画に残された女性像ですね。

平安時代になると、宮廷女性の化粧は変化し、鉛や水銀を原料とする白粉で顔を塗り、紅花から採れた紅(べに)をちょんちょんと口元にさし、頬にも紅をさしました。いわゆるおちょぼ口と、チークです。

そして眉は地眉を抜いて白粉で塗りつぶし、一段高いところに眉を描きました。

平安時代の女性はなぜ眉を抜き、高い場所に描いたのか?そこには平安貴族の倫理観と美意識が!


『化粧眉作口傳』 宝永 5 (1708)年

その様子は『源氏物語』の中にもあり「歯黒めも、まだしかりけるを、ひきつくろはせ給へれば、眉のけざやかになりたるも、美しう清らなり」(お歯黒はまだだが、眉を抜いて眉墨を引いたので、ぱっちりとなったのが美しい)と記述されています。

で、不思議なのは、眉をなぜ抜いたのか。流行りって不思議なもので、私たちもかつて流行った化粧を振り返ると、ダサいって思いますよね。

とはいっても、この記事を書いたからにはそれで片づけるわけにはいかないのでなんとか理由を探ってみます。

■眉を抜いた理由

すると、眉を抜くことで、「感情がわからないようにした」という説が有力だとわかりました。

教養があり高貴な身分の女性の間には、感情を露わにしないほうが良いという倫理観があったからだそうです。
確かに優美さや、たおやかさがもてはやされた時代。恋のさや当ても旺盛だったことから、安易に心が読まれないようにした工夫なのかもしれません。

確かに眉は感情が如実に現れるところ。「眉をひそめる、眉を吊り上げる、眉を曇らせる」など、眉の慣用句はたくさんありますね。

また、この時代の女性は顔を見せないことが風習としてありました。ここからは筆者の全くの推測なのですが、顔を隠すとはいえ顔が全く見えないのも相手に失礼ではなかったのか?と思うのです。

そこで、扇から眉だけが見えることで、相手に対して話を聞いていますよ、とかあなたを見つめていますよ、などという気持ちを示唆したのではないでしょうか。

また縄文時代にも仮面をかぶった土偶は多くあることから、顔を隠すというのは神秘性や高貴さを表す、日本人の伝統的な美意識かもしれません。

お歯黒
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お歯黒をする女性(歌川国貞)

次に「お歯黒」。『魏志倭人伝』に「歯が黒い民の国があった」という記述があるので、歯が黒いのは平安時代前からあった風習だそう。

お歯黒は、涅歯(でっし)、鉄漿(かね)などと書かれ、五倍子粉(ふしのこ)とお歯黒水を用います。十歳ぐらいになると、成人の証として通過儀礼として慣習化していきます。


これらは女性から始まったものの、平安時代末期には公家の男性も施すようになり、特権階級や身分の高さを表す象徴となっていきました。

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参考:ポーラ文化研究所など

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