源義経(みなもとのよしつね)は、一ノ谷の戦いなど多くの合戦で源氏を勝利に導いた、平家打倒最大の功労者です。一方、兄である頼朝と対立して命を落とした、悲劇のヒーローとしても有名ですね。
通説では、両者の対立は後白河法皇が手引きしたとされてきました。鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』には、次のようにあります。
『天子摂関御影』より「後白河院」(藤原為信画・Wikipediaより)
平家滅亡が確実となると、法皇は源氏の力を削ぐために、義経に都の治安維持を担う検非違使の職と左衛門少尉の官位を与えた。
一ノ谷の戦いの恩賞に不満を抱いていた義経は、法皇の任官を受けてしまう。
これが、頼朝の逆鱗に触れた。頼朝の許可を得ない任官は源氏内で禁止されていたためだ。
こうして頼朝は義経を平氏追討の任務からはずし、源範頼に義経追討を命じた——。
以上の内容について、義経が頼朝の命により追討されたのは事実です。しかし事実として認められるのはその点だけで、そこに至る経緯は、現在はウソであると考えられています。
そもそも『吾妻鏡』は鎌倉幕府の正当性を示すためにつくられた歴史書です。その点を考慮した研究によって、最近は記述の矛盾が明らかにされ、新たな視点が示されているのです。
■重要な存在だった義経
頼朝が義経の検非違使任官に激怒したことを裏付ける、同時代の史料は存在しません。
乳母は比企尼といい、伊豆に流され味方のいなかった頃の頼朝を育てて支援した大恩人です。彼はその恩を忘れず、比企氏を重宝していました。そんな比企氏との婚姻を後押ししたのは、頼朝にとって義経が重要な存在だったことを示すものでしょう。

源氏山公園の源頼朝像
また、義経が平氏追討の任務からはずされたのは事実ですが、その理由は頼朝の怒りを買ったからではなく、畿内の平氏残党に対処するためです。都の治安維持と畿内の平定が、義経に任された任務だったのです。
そもそもこの時期に、後白河が頼朝と義経の仲を引き裂くメリットはありません。
源氏と後白河の共通の敵である平氏は、いまだ西国で勢力を保っていました。頼朝と義経が対立してしまえば畿内の治安が悪化して、平氏が勢いを取り戻すかも知れません。そんな事態は招きたくなかったはずです。
■関係悪化の真相
では、なぜ頼朝と義経の関係は悪化したのでしょうか?
考えられる要因は二つあります。まず、壇ノ浦の戦いの失策です。

白幡神社の源義経と弁慶像
ところが義経が短期決戦に持ち込んだことで安徳は入水し、三種の神器の草薙剣も海底に没します。
もう一つ、義経が伊予守就任時にとった態度が頼朝の逆鱗に触れたと思われます。伊予守は源氏にとって最高の名誉で、頼朝は義経が任官するよう法皇に要請までしていました。
しかし伊予守になるのなら、慣例に基づいて検非違使の職を辞任する必要があります。頼朝は、義経の検非違使辞任により都から距離を置くというメッセージを朝廷に発信するつもりだったのでしょう。
しかし、義経は伊予守と検非違使の両職を兼任してしまいます。朝廷に頼らない軍事的利権の確保を目指していたのに、弟が法皇の部下では、源氏の面目が丸つぶれです。
義経が兼任した裏には、義経を都においておきたいという後白河の動きがあったともいわれています。
後白河は頼朝と良好な関係を築いていたので、源氏に敵対する意図はなかったと考えられますが、頼朝からすれば後白河と義経が結託しているように見えたことでしょう。
おそらくこの頃から、頼朝は義経への不信感を強めていったのです。

中尊寺所蔵の源義経像(Wikipediaより)
一方で、義経にも兄への不満がありました。
そうしたなか、義経は反頼朝派の源行家と結託。後白河に頼朝追討の命を出すよう求めたため、あとに引けない状況になったのでしょう。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia
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