江戸時代、「太夫」「花魁」などと呼ばれた吉原のトップ遊女たちは、幼い頃に貧しい家から売られて「禿(かむろ)」という見習いとなり、振袖新造を経てステップアップするというのが一般的でした。

最高位は10万円超!?江戸吉原の最高級の遊女「花魁」と言っても更に細かい階級がありました
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もぐりの私娼から江戸・吉原遊郭のトップ「太夫」にまで上り詰めた伝説の遊女「勝山」




その一方で、岡場所などの私娼窟で働いていて逮捕され、刑罰として吉原に身柄を引き渡されて3年の年季奉公を科せられる女性も存在しました。






彼女たちは「奴女郎(やっこじょろう)」と呼ばれ、吉原の遊女の中で軽蔑される最下級の扱いを受けるのが通例でした。





もぐりの私娼から江戸・吉原遊郭のトップ「太夫」にまで上り詰めた伝説の遊女「勝山」




ところがそんな奴女郎から吉原の太夫、更には江戸のファッションリーダーにまで登り詰めた伝説のトップ遊女がいました。





私娼の湯女から吉原のトップ「太夫」になった勝山の来歴とは?





その遊女の名前は「勝山」。





彼女は武州八王子(現在の東京都八王子市)出身で、「丹前風呂」と呼ばれる風呂屋の湯女として働いていました。





湯女は、もともとは銭湯などで「垢すり」や「髪すき」などのサービスだけを行う女性でしたが、だんだんとそれらに加えて売春も行うようになり、江戸幕府からはしばしば取締まりの対象とされていました。





以前「トルコ風呂」の名称が「ソープランド」に変更となった理由について解説しましたが、その「トルコ風呂」で当初「垢すりサービス」を行う女性が働いていたのが、いつしか「本番あり」のサービスを行う風俗店へ変わっていったのと似ていますね。

昔は「トルコ風呂」と呼んでいた。「ソープランド」への名称変更の裏にはあわや国際問題!の危機が?
もぐりの私娼から江戸・吉原遊郭のトップ「太夫」にまで上り詰めた伝説の遊女「勝山」






勝山もまた、この取り締まりにより逮捕され、そのまま遊女として吉原に身柄を移されたのでした。江戸時代には、江戸で売春行為が公的に認められていたのは吉原だけだったため、本来これは違法行為である「もぐり」の遊女である私娼に下される刑罰でした。





しかし勝山は湯女として元々人気が高かったこともあり、そこから最高位の太夫にまで上り詰めました。











勝山の考案した服装も大流行!ファッションリーダーに!





勝山は、井原西鶴の『西鶴織留』に名妓として紹介されていることからも分かるように、吉原にとどまらず全国的に人気のある太夫となりました。





そのことは、彼女の身に着けたものが次々と大流行し、いつしか定番ファッションとして定着していったことからも窺えます。






例えば「勝山髷」という髷を大きな輪に結った華やかな武家風の髷は、後に既婚女性の髷として定番となった「丸髷」の原型となりました。





この髷は、勝山が花魁道中をしている最中に、ある男が勝山の気を引こうと彼女の髷の元結の部分をを切ってしまったことが発端で生まれたという伝説があります。





髪型が崩れてしまった勝山は、慌ても騒ぎもせずに懇意の床屋で髪を巻き、簡単にかんざしで留めた新しいヘアスタイルに変え、堂々と花魁道中に戻ったのだとか。





もぐりの私娼から江戸・吉原遊郭のトップ「太夫」にまで上り詰めた伝説の遊女「勝山」
画像出典:Wikipedia/勝山(遊女)



また現在では「褞袍(どてら)」とも呼ばれる防寒用の綿入れ半纏「丹前」も、彼女が考案したものが流行したとされています。





現代なら、スーパーアイドルの身に着けた服やアクセサリーなどが一般人の間で大流行するような感覚でしょう。「花魁道中」で吉原の花魁が歩くときの「外八文字」も、勝山が始めたという説があります。





勝山は「旗本奴(武家の使用人)」に人気が高かったこともあり、男っぽい武家がかったファッションが好みでした。それが一般の人々には「粋」「斬新」と映り、「男装の麗人」さながらに大人気となったのかもしれませんね。



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