■「倭国の王」卑弥呼

3世紀半ばの日本に君臨した、女王にして巫女。それが卑弥呼です。
邪馬台国の名前とセットで覚えている人も多いでしょう。高校の日本史教科書にも、卑弥呼は邪馬台国の女王として記されています。

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しかし実は、卑弥呼が邪馬台国の女王だったことを示す、信頼性のある史料は存在しません。

彼女の人物像は、あくまでも3世紀末頃の中国で書かれた魏志倭人伝など中国の史料に基づいています。それを要約すると以下のとおりです。

倭国(日本)では、男子の王の時代が80年ほど経つと、大規模な内乱が起きた。せめぎあいは8年前後にもわたった。そこで、女性の王を共立して立てることが決まる。選ばれたのが卑弥呼だ。結果、戦乱はようやく収束を迎えることができた——。

魏志倭人伝のこの下りをよく読むと、卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく倭国の王だと記されています。同書の他の箇所でも、実は卑弥呼=倭国の王としてしか描かれていません。


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魏志倭人伝の原文の抜粋(Wikipediaより)

例えば、中国北部を支配していた魏は、238年(239年説もあり)に卑弥呼へ親魏倭王の称号を与えています。また詔勅にも倭国女王卑弥呼と記しています。

さらに倭国と狗奴国(倭国南部にあったとされる国)の不仲を伝える記録でも、卑弥呼を倭国の女王として扱っているのです。



■卑弥呼に実権はなかった?

繰り返しますが、最も有名な魏志倭人伝でも「邪馬台国は女王の住む都」だという記述はあるものの、「卑弥呼が邪馬台国の女王だ」とする記述は存在しません。

となると、卑弥呼は他国から邪馬台国へ、倭国の盟主としてやってきただけという可能性も考えられます。

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「邪馬台国女王」卑弥呼像

そもそも、邪馬台国が倭国を支配していたという考えについても、現在は否定的な意見が少なくありません。

卑弥呼の女王就任後も30程度の小国は乱立したままで、倭国全体を支配する王朝が存在しなかったからです。

つまり、いわば倭国とは連合国家のようなもので、邪馬台国は連合の盟主だったと考えられます。

さらに、卑弥呼は倭国のトップにこそ立ったものの、政治的実権はほぼなかったのではないかという説もあります。

魏志倭人伝によれば、卑弥呼の役割は巫術を用いた占いと神事だったようです。彼女には1000人の召使がいましたが、卑弥呼は宮殿の奥に篭って人前になかなか姿を現しませんでした。

この謎多き人物の政治を補佐したのが卑弥呼の弟で、給仕や伝令の取次は弟の役目でした。


本当は、この弟が政治の実務を担当しており、卑弥呼は倭国のシンボル的存在として君臨していたのではないか、ともいわれています。



■卑弥呼は名前ではない?

卑弥呼に関する新説は他にもあります。例えば「卑弥呼」は個人名でなく、役職名もしくは尊称だとする説が挙げられます。

この説の根拠は、5世紀に成立した『後漢書』東夷伝です。そこには、189年頃に卑弥呼という「年増」の女性がいたと記されているのです。卑弥呼の没年は247年か248年と考えられているので、同一人物にしては年代が離れすぎています。

しかし両者は別人で、例えば『古事記』『日本書紀』に記される「姫命」のような意味で、卑弥呼という尊称で呼ばれていたのだとしたら辻褄は合いますね。

ただ、この説では卑弥呼のあとに立ったとされる「壱与」の名に矛盾が生じますし、そもそも『後漢書』の成立は魏志倭人伝より約150年も後のことです。記載ミスや創作が入り込んでいる可能性は否めません。

このように、卑弥呼はまだまだ謎に満ちた存在ですが、発掘調査が進む現在、邪馬台国に関係するのではないかという新発見も相次いで見つかっています。

卑弥呼の実像の一端が、近い将来明らかになる日も遠くないかも?

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邪馬台国だったのではないかという説がある奈良県桜井市の纒向遺跡

参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年

画像:photoAC,Wikipedia

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