身分の低い女性が身分の高い男性と結婚する。そんなドラマのようなシンデレラストーリーを実際にやった方が江戸時代にはいました。






その人物の名前はお玉で、後に徳川綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)として知られるようになります。





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桂昌院/Wikipediaより



今回は玉の輿の語源にもなったお玉のシンデレラストーリーを紹介します。





元は八百屋の娘





お玉は諸説ありますが、寛永4年(1637)に京都にある八百屋の娘として生まれたとされています。お玉がまだ幼い時に父が他界し、母は武士である本庄正宗の元へ奉公に出ます。





そこで母が正宗の目に留まり再婚することになり、お玉は武家の娘になりました。





そして、お玉が13歳の時徳川家光の側室・お万の方の部屋子(召使い)として仕えるために京都から江戸へ行くことになります。





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春日局/Wikipediaより



ある時、お万の方の部屋子だったお玉を家光の乳母・春日局(かすがのつぼね)は家光の側室にするべく自身の部屋子としてスカウトしました。











将軍の側室になったが、待っていたのは…





春日局の協力もあり、将軍付きの御中臈(おちゅうろう)となります。御中臈は主に将軍のお世話をする役職であり、側室になれる確率も高いのも特徴でした。





家光に気に入れられたお玉は側室となり、正保3年(1646)に綱吉を出産します。しかし、綱吉は3男だったために次期将軍になれることは絶望的でした。





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徳川家光/Wikipediaより



それでもお玉は綱吉が聡明だったので、将来性を信じ学問を教えました。






そんな中、慶安4年(1651)に家光が没し、徳川家綱が4代将軍に就任するとお玉は剃髪し、「桂昌院」と名前を変え、大奥を後にします。





そして、綱吉が館林藩の藩主になると館林藩江戸藩邸へ住みました。





綱吉が将軍に、桂昌院は従一位に





延宝8年(1680)、藩主の母として何不自由なく暮らしていた桂昌院に思ってもいなかった転機が訪れます。それは家綱の病死でした。





家綱は後継ぎを残さないまま亡くなってしまったので、家綱の異母弟の綱吉に白羽の矢が立ちました。こうして、綱吉は5代将軍に就任し、桂昌院は「将軍の母」として絶対的な権力を得ることになります。





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そして、桂昌院は元禄15年(1702)には女性の最高官位である従一位を与えられ、宝永2年(1705)に79歳で生涯を終えました。











桂昌院の陰に隠れたもう1人のシンデレラ





実は桂昌院の他にもう1人シンデレラストーリーを歩んだ人物がいました。その人物は4代将軍家綱の母・宝樹院(ほうじゅいん)です。





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徳川家綱/Wikipediaより



元々農家の出だった宝樹院は父が禁猟だった鶴を狩猟したため死罪となったので、罪人の娘でもあります。





しかし、宝樹院の母が江戸に出て奉公先の永井家で懸命に働き、おかげで女中として認められるようになりました。そして、母が古着商人・七沢清宗(ななさわ-きよむね)と再婚します。






宝樹院は清宗の経営する古着屋で働いていたところ、目に留まった春日局のスカウトを受けて大奥に入ります。そして、家光の側室になり、寛永18年(1641)に家綱を産みます。





農民から将軍の側室になった宝樹院でしたが、家綱が4代将軍になってすぐの承応元年(1653)に32歳で亡くなってしまいました。





なぜ宝樹院があまり知られていないのかというと、若くして亡くなったことが起因していると思います。それにより桂昌院の影に隠れてしまったのだと考えます。





最後に





身分に厳しい江戸時代だけあって身分を越えた結婚は、当時は大層羨ましがられたと思います。人生何があるかわからないので、ふとした瞬間に転機が訪れるかもしれませんね。





それにしても、春日局の人を見る目には驚きです。江戸版スカウトマンと言っても過言ではないですね。



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