実は通説では戦いに敗れた小次郎は命を落としたとされていますが、実は生きていたとする説があることはご存知でしたでしょうか。
九州岸柳島 宮本無三四佐々木岸柳仕合之図(歌川芳虎 画)
そのことが書かれているのが細川藩家老であった沼田延元の記録をもとに再構成された書物『沼田家記』。そしてこの書によれば武蔵との決闘において、小次郎は実は死に至らしめておらず、その後も小次郎は生きていたとのこと。
実際に小次郎を殺したのは武蔵の弟子たちで、小次郎が巌流島にて没したのは通説と変更はありませんが、武蔵が息の根を止めたわけではないといいます。

面白いことに巌流島のすぐ西にある彦島には「彦島弟子待町」という地名が残されており、そこには小次郎の弟子たちが巌流島の決闘を遠くから見守っていたという話が伝わっています。
この彦島東沿岸から巌流島までの距離はおよそ300mほどで、伝説のように弟子たちが師の決闘の様子を見守ることも不可能ではなかったと推測することも可能です。
また、小次郎の妻のその後についても言い伝えが残されています。それによれば、決闘当時、小次郎の妻・ユキは子どもを身籠っており、夫の遺髪を届けられた後、山陰地方に逃れたそうです。
実はユキはキリシタンで、長い流転の末、他の信者たちとともに山口県阿武郡阿武町福田下の寺ヶ浴という地にたどり着き、その土地の正法寺という寺に身を寄せて剃髪して、尼になったそうです。
現在も同所には小次郎の墓が残っていますが、それはユキが夫の菩提を弔うために築いたもので、墓には「佐々木古志らう」と刻まれています。
この墓石の名前についても伝説が残されており、ユキが墓名に「佐々木小次郎」と刻ませなかったのは、これから生まれようとしている子どもが成長してこの墓を目にしたときに、その子が父親の敵を討つことがないように配慮したためだとか。

また、小次郎の墓の近くには「バテレン墓」と呼ばれている墓も残されています。これは六面の観音様が彫られている石塔で、ユキがこの墓に祈りを捧げていたと伝わります。
参考:山口県の旅行・観光情報 おいでませ山口へ
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