太原雪斎(たいげん・せっさい)は今川義元の軍師で知られていますが、なにせ今川義元が敗将なだけに、その名前は黒田官兵衛などの軍師に比べると知られていないところがあります。
今川義元(Wikipediaより)
しかし彼は加持祈禱に知悉しながら卓越した外交力も発揮した名軍師で、戦国時代前期の、占いや天文学で軍師としての役割を果たした軍配者タイプの軍師としては屈指の人物と言えるでしょう。
今回はそんな雪斎の足跡を追ってみます。
彼は諱を太原といい、字を崇孚といいました。したがって正しくは太原崇孚であるが、号の雪斎の名の方が有名です。
彼は明応5年(1496)、今川氏親の重臣庵原左衛門尉の子として生まれました。どんな理由があったかは不明ですが幼くして仏門に入り、はじめは富士の善得寺、ついで京都の建仁寺龍泉院で修行しています。
その雪斎に、今川氏親の五男養育の依頼があり、雪斎は善得寺に戻るとその子の養育にあたることになりました。この五男が栴岳承芳、のちの今川義元です。
雪斎はこの承芳を伴って、はじめ建仁寺、ついで妙心寺で修行を続けています。
■安城城攻略と人質交換まで
ところが、今川家の家督を継いでいた兄の氏輝が亡くなり、もう一人の兄である玄広恵探と、雪斎が養育した承芳との家督争いが勃発します。この争いには承芳が勝ち、12代将軍・足利義晴から「義」の一字を与えられて義元と名乗ることとなりました。
このとき雪斎は、亡き氏輝の菩提寺として建立された臨済寺の住持になると共に、義元の帷軽に加わることになりました。
今川義元が、雪斎を自らの屋敷に近い臨在寺の住持として据えたことからも、その揺るぎない信頼関係が分かります。
これが軍師としての大原雪斎の誕生で、まわりからは執権や黒衣の宰相などと呼ばれるようになります。
さて、義元が天文15年(1546)から三河に侵攻したとき、今川軍を率いていたのは義元ではなく、実は雪斎だったことはあまり知られていません。
同17年3月の三河小豆坂の戦いで織田信秀を破ったときも、今川軍の大将は雪斎でした。
その雪斎の軍師としての働きがよくわかるのが、その翌年の安城城の戦いです。安城城を守っていたのは織田信秀の長男・信広ですが、雪斎は城攻めにあたり「信広を殺すな。生け捕りにせよ」と命じています。
そうして信広を生け捕りにして、織田方に取られていた松平竹千代、のちの家康との人質交換を成功させているのです。

岡﨑城にある松平竹千代像
なお、雪斎がその竹千代に兵法を教えていたことも『武辺咄聞書』から伺えます。
■三国同盟も締結
ほかにも雪斎は、僧侶として加持祈禱を行うとともに、外交面でも義元の軍師として大きな働きをしています。それが甲相駿三国同盟の締結です。
今川氏は、義元が家督を継ぐ前は相模の北条氏と同盟関係にありました。ところが、義元が武田氏と結んだことで、北条氏とは敵対関係となってしまいます。
そこで雪斎が動き、武田信玄と北条氏康、そして義元の三者間を結びつけることに成功しているのです。

北条氏康(Wikipediaより)
この甲相駿三国同盟が締結された結果、義元は背後を心配することなく、三河から尾張へと侵出していくことが可能となったのでした。
しかし、その今川氏黄金時代を築き上げたまさにその時、弘治元年(1555)閏10月10日、雪斎は亡くなっています。また、彼の助力を得て今川家の繁栄に尽力した今川義元が、雪斎の没後に桶狭間で戦死したのはご承知のとおりです。
今川義元を立派な戦国大名に育て上げた上に、天下人・徳川家康をも訓育した雪斎。また当時、関東では敵なしと言われた北条氏との敵対を避けるために、彼は同盟を計画して甲斐・相模・駿河による歴史的な三国同盟の締結をも果たしたのです。
これほどの軍師が、早く亡くならずに後世まで活躍していたら、その後の歴史も大きく変わっていたかも知れませんね。
参考資料:『歴史人2022年5月号増刊図解戦国家臣団大全』2022年5月号増刊、ABCアーク
画像:photoAC,Wikipedia
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