もし目が見えなくなったら、日常はどう変わるのか。こんな想像が現実になった男性がいる。
「見える人」から視覚障害者として生きることを受け入れるまでに、どんな葛藤があったのか。ノンフィクションライターの三宅玲子さんが話を聞いた――。(前編/全2回)
■失明した原因はいまも分かっていない
ある日、突然視力を失った。36歳の春、3カ月前に第二子が生まれたばかりだった。
原因は多発性硬化症。自己免疫疾患の一種だと医師は説明した。脳の中枢神経に炎症が起こり、視力、感覚、運動に障害を引き起こす、国の指定難病だ。原因は解明されていない。
現在、右目の視力はほぼなく、わずかに光を感じられる程度。左目は外側がぼんやりと見えるといい、視覚障害の等級では最も重い1級に当たる。
病気とは無縁で、健康そのものだった日々から一転。恐怖、怒り、悲しみ、嘆き、絶望。
失明の事実を受け入れるまでに味わったさまざまな感情は、他者の想像が及ぶものではない。
その日から9年。その人、石井健介さんは、ブラインドコミュニケーターと名乗って活動している。耳慣れない仕事は石井さんオリジナルの造語だ。石井さんは「見えない」ことにはエンターテインメントの可能性があると考えている。
たとえば、「見えない」と「見える」のあわいを体感するワークショップ、ポッドキャストのパーソナリティ、目の見えない人のためにつくられる映画の音声ガイドのクオリティチェックなどだ。ユニークなプログラムの開発にも携わっている。
■「見えないからこそ見えること」とは?
「見えないからこそ見えること、見えないからこそ気づけることはたくさんある、そのことを伝えようとしています」
インタビューのきっかけは石井さんの著書『見えない世界で見えてきたこと』(光文社)を読んだことだった。36歳までの「見えていた人生」と「見えなくなってからの人生」を交差させながら書き綴ったエッセイ風の自伝だ。
ライトで洒脱な文体は、発症時の混乱や葛藤までも爽やかに描いていた。だが軽やかさはむしろ、現在地に辿り着くまでに過ごした時間の重さを想像させた。
石井さんはどのように心を立て直す過程をたどったのか。
さらりと書かれているこの部分こそ聞かせてもらいたいと思った。視力を失うほどの絶望から自分を立て直すすべを知りたくない人はいないだろう。私たちも明日突然何かを失う可能性のなかで生きているのだから。
■入院していた35日間が再起の土台に
「今はこんなふうに笑っていますけれど、彼も相応に苦しみました」
実際はどうだったのでしょうかと問うと、隣に座る同い年の妻・朋美さんが静かに言い、石井さんが笑った。
「そうなんです。でも、苦しんだ時間がすごく短くて、鍼灸師の先生から、石井くんの立ち直りの早さは奇跡だよ、と呆れられたくらいです」
失明して入院し、泣き暮れた35日間が再起の土台となったという。
「わずか1カ月、ですか? 早いですね」と思わず問い直した。私たちはともすれば、何年も前の過ちを悔い、思い悩むではないか。
すると、「少なくとも、最も深い苦しみの底からは、35日間で確かに浮かびあがることができた」と石井さんだけでなく朋美さんも言うのだ。そして、「もう終わったことだから、苦しさに焦点を当てる本を描きたいとは思わなかった」と。
だが、同時に、「9年後に今のように自由な働き方をしている姿は想像していなかった」と石井さんは振り返る。
■妻の腕にすがって病院を再受診すると…
〈視界のすべてがにじんでぼやけ、何ひとつとしてはっきりと見えない。
(中略)僕がそのときにあげた叫び声のなかには、どんな感情が入り混じっていたのだろう。混乱、恐怖、絶望、あるいはそのすべてだったのか。とにかく大声で泣き叫びながら、すでに起きて朝食の準備をしていた妻の名前を呼んだ。〉
本書冒頭の描写は胸を突く。
初診で「疲れ目でしょう」とあしらわれた週末の午後。そして翌朝目が覚めると、事態はより進んでいたのだ。朋美さんの腕にすがって再度受診すると、今度は紹介状を持たされた。そして訪ねた総合病院の救急外来で、石井さんは即入院となる。
石井さんの35日間はそこから始まる。病棟で待っていたのは、見えていた頃には見えなかった人たちとの出会いだった。
「同じ病室で過ごした患者さんたちです。全員、僕より年上のおじさんたちでした。
おしゃれでもなく、どちらかといえばカッコ悪い、どこにでもいるふつうの人たちで、目が見えていた頃の僕だったらおよそ関心を持たなかった。でも、あの人たちと出会ったおかげで、僕は気づくことができたんです」
■他人を見た目で判断できなくなった結果
目が見えていた頃の石井さんは、斜に構え、人を見た目で判断していたという。だが、見えなくなると、センスが洗練されているかとか、上等の服を着ているかといった判断材料はない。
否応なく「見た目で判断」というフィルターを手放した。
すると、それぞれに困難な病と闘っているその人たちの何気ないあたたかさや思いやりが、石井さんの心に沁みわたっていく。そして体の芯から感謝がわいてきた。
「このおじさんたちとの関わりを通して、人を外見で判断することでほんとうの姿に近づくのを遠回りしていたのが、ショートカットで行けるようになりました」
人を見た目で判断しない、それは他者に心を開くネジを緩めること。すると今度は、自分自身と対話することになった。
■この難病は自分に罰を与えるものなのか?
「いちばんに考えたのが、子どもの頃からの性格についてでした。多発性硬化症は自己免疫疾患で、自分の免疫が自分の細胞を攻撃するというものです。自分が過去に悪いことをしたから、あのときの罰として自分で自分を攻撃してしまう病気になったんじゃないかと考えました。
子どもの頃に抱いた、勉強のできる兄への悔しい感情や、親に対する怒りの感情を思い出しました。
そんな感情を持ってしまったのがいけなかったんじゃないかと、マイナスの記憶と激しい後悔で、自分を責める気持ちがぐるぐると沸き起こりました」
たとえば、と石井さんは子ども時代について話してくれた。学校がきらいで不登校だったのに生徒会長に選ばれ、悪い子集団に悪知恵を授けるような、複雑な少年期。一緒に遊んでいたグループのひとりから陰口を広められて孤立した思春期の苦い思い出。心に負った傷は大人になった石井さんに、他者を信じられなくさせた。
「この人も裏切るんじゃないかって、何かと相手の気持ちを疑ってしまっていました。反面、正義感が強すぎるくらいに強くて、歩き煙草をしている人を見ると見境いなく注意するような、無鉄砲なところがありました」
21歳でアパレル販売員として働きはじめ、1年半のイギリスへの語学留学を挟んで、アパレルメーカーの営業企画、輸入靴代理店、環境に配慮されたライフスタイルを提案する会社、北欧雑貨輸入代理店の営業、33歳で独立する。フリーランスでPR・営業企画の仕事を始めた。視力を失ったのはその3年後だ。
■苦しむ自分と、もう一人の自分が対話
だが、悪いことばかりではなかった。石井さんを救った習慣もある。太平洋を望む千葉県館山市で海と親しんで育ったことは、石井さんに内なる感受性を育てていた。
今この瞬間に意識を向け、ありのままを受け入れる「マインドフルネス」への関心からセラピストの活動に携わった経験もある。
「見えない」という絶望の底で、石井さんが徹底して自身の過去からの記憶と向き合うことができたひとつには、マインドフルネス思考があったという。
そしてもうひとつ、「日記の習慣」が石井さんを支えた。
「中学ぐらいからずっと日記を書いていました。日記を書くことで自分を対象化して見ることができるようになっていたと思います。だから、自分の過去を原因づけて苦しい最中にも、過去の自分を掘り下げる自分をもう一人の自分が冷静に見ていて、自分ともう一人の自分が頭の中で対話してました。それがよかったんじゃないかなと思います」
■「かわいそう」という友の言葉に癒やされた
「支えてくれたお友達のおかげです」
と、立て直しを助けたもうひとつの要因を朋美さんが教えてくれた。
SNSなどの一切の連絡手段を断たれた石井さんに代わって、朋美さんが石井さんのSNSアカウントに病気の報告を書き込んだ。すると数百件の労りや励ましのコメントが書き込まれ、石井さんを感激させる。
会いにきてくれた友達とのごくふつうの会話や、鍼灸師の友人による深い癒やしが石井さんの光になった。「大丈夫だよ」と声をかけられるより、鍼灸師の友人が語りかけた「かわいそうに」という言葉が、石井さんを癒やした。彼のひと言から石井さんは慈しみを受け取り、「自分は大丈夫だ」と無理して強がることから解放された。
自身が思うよりずっと、石井さんは他者から愛され、必要とされる存在だったのだ。
だんだんと35日間の全容が見えてくる。発病と性格を関連づけて堂々巡りの自問自答に苦しんだが、そのもっとも苦しいときに、病室の人たちや友達からの溢れんばかりのやさしさを寄せられた。海辺に育ちセラピーの技術を持つ石井さんは、身体性と心のつながりを知っていた。それらが支えとなって、すっかり感情を出し切るころに、他者を信用しないという考え方の癖をきれいに手放したのではないか。
けれど、石井さんの失明は家族の未来設計に変更を迫った。第一に石井さんの収入が途絶える。3歳と生後4カ月のこども二人のお世話は妻・朋美さんひとりの肩にのしかかる。加えて石井さんも「手のかかる存在」になった。
■「妻の足手まといになるんじゃないか」
「実際、妻の足手まといになるんじゃないかと思ったこともあります」
と石井さんは打ち明けた。
朋美さんが看護職という幸運は家族の危機に支柱となった。朋美さんは病気への専門知識をもとに、現実を受け止めた。
一方で問題は続く。家族で暮らしていたアパートが家主の都合で立ち退きを迫られていた。これを機に夫婦は館山市にある石井さんの実家に引っ越しをする。二世帯住宅になっていて家賃はかからない。ここで生活の基盤を整えることを選んだ。
そんななか、障害者手帳を取得し、障害者年金の受給を始めたことは新しい一歩となる。
「経済の基盤はとても大事です。ベーシックインカムを確保できたことは次の行動につながったと思います」
障害年金の受給資格は、年金をきちんと納めていたかや、障害について初めて受診した日の正確な申請ができるかなど、要件が厳しく定められている。石井さんは要件を揃えられたことで障害者年金の受給が可能になった。
■目が見えないって別に特別なことではない
2017年、都内の日本視覚障害者職能開発センターに通い始めた。週に2~3回、1年間、館山からバスで片道2時間かけて新宿まで出て、地下鉄で四谷へ。スクリーンリーダー(音声読み上げ)ソフトを使ってワードやエクセルを使う技術を取得した。だがそれ以上に、「見えない」人たちと知り合ったことが糧となる。
「教える先生も生徒もみんな目が見えない人たちです。僕のように途中から見えなくなった人もいれば、生まれたときから視力のない人もいます。目が見えないって別に特別なことではないと思えた、それが僕にとって大きかった」
都心に通い始める前に、半年ほど歩行訓練士の支援を受けて白杖で歩く練習をしていた。白杖を道連れに少しずつ行動範囲は広がっていく。職能開発センターで知り合った全盲の友人は白杖を使い早足でスタスタと自在に歩いた。
「僕も見えなくなるまで全盲の知り合いはいませんでした。見えなくなって初めて、見えないという自分の条件に合わせた人生の歩き方で、堂々と生きる人たちの存在を知ったわけです。見えなくなって、見えたことです」
後編へ続く)

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三宅 玲子(みやけ・れいこ)

ノンフィクションライター

熊本県生まれ。「ひとと世の中」をテーマに取材。2024年3月、北海道から九州まで11の独立書店の物語『本屋のない人生なんて』(光文社)を出版。他に『真夜中の陽だまり ルポ・夜間保育園』(文芸春秋)。

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(ノンフィクションライター 三宅 玲子)
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