戦国時代の大名たちや、その軍勢全体が戦場でどのように戦っていたのかは、歴史好きの人ならよく知っていると思います。しかしその「家臣」をはじめとする兵卒たちがどのように合戦に臨んでいたのか、その実態は意外と知られていません。
今回は、戦国大名の家臣や兵卒たちの、いわば合戦のリアルについて見ていきましょう。
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まず、戦いに参加するときの遠征費用や武器の準備はどうするのかという問題です。これは、基本的には家臣たちが自分で準備をする必要がありました。つまり自腹です。
一般的に、戦国大名は家臣の所領の規模に応じて、戦闘に参加する人数や武器などを細かく取り決めていたとされています。そこに動員される兵卒は、遠征費用や武器の調達を自腹で賄っていました。
現代の戦争では、自腹ということはありえないので大きな差があると言えるでしょう。
また彼らの武具は、現在の博物館や美術館にあるような、美術工芸品と言われてもおかしくない壮麗な鎧・兜あるいは刀や槍などではありませんでした。むしろ、それとは比較にならないほど粗末な装備だったようです。

彼らの装備は、実用に徹したものだったのは間違いありません。食糧も携行食が発達し、例えば縄に味噌をしみこませて乾燥させたものなどが開発されました(これも、発達と言っていいのか分からないほど粗末ですが…)。
そんな有様だったので、合戦で勝利した兵卒たちが略奪に走ることも珍しくなかったようです。
彼らは金銭や物品だけでなく、時として人間も略奪しました。兵卒の中には、戦いよりも略奪に夢中になっていた者もいたという逸話があるほどで、勝利に伴ってもらえる恩賞だけでは満足できなかったのでしょう。
■軍功の確認と影武者
次に興味深いテーマとして、当時の合戦における兵卒たちは、戦の手柄をどうやって確認したのか、というものがあります。
戦場には軍目付がいたものの、軍目付というのは合戦の大局を見るものなので、個々の兵卒の活躍ぶりを確認するのは困難でした。
そこで戦場の兵卒は、複数の者がそれぞれの手柄を確認し合っていたようです。彼らは単独行動ではなく複数で連れ添っており、誰かが敵の首を獲ると、相方がその戦功を確認して証言者となったのです。
最初に敵を討った首は一番首と呼ばれ、真っ先に本陣へ持参し、首帳という台帳に記録されました。
その結果、軍功が認められた者には、主君から感状や恩賞を与えられたのです。
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ちなみに、戦国時代と言えば影武者の話がよく出てきますが、当時、実際に影武者と呼ばれる者が存在していたのかどうかは不明です。
例えば武田信玄の病死後には、弟の信廉が信玄の影武者を務めたという逸話があります。唯一無二の当主を守るため、影武者が存在したとの噂はこと欠きません。
他にも真田幸村にも7人の影武者がいたといわれていますが、その実在を証明する史料は今のところ存在しません。

真田幸村肖像画(Wikipediaより)
職務の性格上、影武者は存在そのものが秘密にされており、神秘のベールに包まれているといえるでしょう。
■13歳で大人の仲間入り
最後に、当時の武士の初陣の年齢ですが、これはおおむね13歳から17歳くらいが平均的だったようです。
現代日本ではようやく18歳で選挙権を得られるようになりましたが、戦国時代では大人として認められる年齢はもっと早く、早ければ13歳くらいで元服を済ませて大人の仲間入りを果たしていました。
彼らは元服を機に髪形・服装を改め、名乗りも幼名から実名に変わります。そしてこの年になると初陣を果たしていました。
また、元服を済ませると同時に筆おろしも行われ、名実ともに大人の仲間入りを果たしていたようです。大人になったというわけで、間を置かずに結婚することも珍しくありませんでした。
そして、初陣で敵の首を獲るなど武功を挙げることが、武勇の誉れとなったわけです。

豊臣秀頼像
しかし、大戦争の時代が終わると出陣の機会は激減し、豊臣秀頼のように一度も戦場に出ることなく、無念のまま死ぬ者もありました。
こうした当時の人々の在り方をよく知ると、戦国時代を見る目の解像度もさらに上がりそうですね。
参考資料:『歴史人2022年5月号増刊図解戦国家臣団大全』2022年5月号増刊、ABCアーク
画像:photoAC,Wikipedia
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