そもそも古墳は、水田開発を積極的に推し進めた古代の豪族が、自らの開発地域を一望できる場所に墓所を造営したことが始まりだと考えられています。
そして、豪族の力が高まると、首長霊信仰が生まれ、巨大な墓所が次々と造られるようになったのでしょう。
当時の首長とは、蘇我氏や物部氏などの中央政界で力をもつ豪族や、地方を支配する豪族を束ねる者のことです。
たとえば、蘇我氏という組織全体が「豪族」であり、蘇我馬子のような人物が「首長」となります。
蘇我馬子(Wikipediaより)
豪族を率いる首長は、その家の神が守る唯一の人間として、豪族の構成員に命令を下すことができます。そして、死んだ首長は首長霊の一員となって、次の首長を守します。
したがって、新たな首長は、前の首長のために神を祀るにふさわしい墓を造る必要があり、当時の最高の技術を駆使して古墳がつくられることになりました。
逆にいえば、先代の古墳を築く人物こそ、周りから正統な後継者と認められたわけです。
■大山古墳の設計者は?
さて、そんな古墳でも日本最大のものは、大阪府にある大山古墳です。
かつては仁徳天皇陵と呼ばれていましたが、近年の研究で、古墳が造られた時期が仁徳天皇の時期とずれていることがわかり、現代では地名から大山古墳と呼ばれています。

大山古墳(Wikipediaより)
この大山古墳は三重の濠をもち、全長が四八六メートルもあって、底面積だけ見ればピラミッドよりも巨大です。世界的にも最大級の墓と言っていいでしょう。
また、その形は、空から見ると均整が取れていて、最も美しい前方後円墳ともいわれています。そのことから、当時の倭国の土木技術は一流だったと考えられますが、では誰がどのようにして、この巨大古墳を設計したのでしょうか?
この古墳造りにかかわった技術者集団と目されているのは、土師氏(はじし)です。
奈良の豪族だった土師氏は、三ツ塚古墳も含めた道明寺一帯を本拠とし、古墳造営や葬送儀礼にかかわった氏族とみられています。
奈良・大阪の古墳群や大古墳の近くには土師という地名があり、それらは古墳を築くために一族が移り住んだ居住地に、豪族名が地名として残ったものと考えられています。
土師氏は、四世紀末から一五〇年ほどの間、古墳造りにかかわり続けた後、朝廷から新たな姓を与えられて、大江氏、菅原氏、秋篠氏に分かれていったとみられています。
■棺は誰が作った?
また、当時使われていた棺についても、特定の工人が建築に関わったと考えられています。
当時の棺の大半は木製ですが、古代には、木製のほか、焼物の陶棺と石棺がありました。
とくに、古墳時代には石棺が多く作られ、西日本を中心に一〇〇○個近くが発掘されています。
その石棺には、板石を組み合わせたものと、巨岩をくり抜いた刳抜式(くりぬきしき)がありました。そのうち、刳抜式の石棺の産地は讃岐地方だったと考えられています。
もともと、瀬戸内東部では銅鐸の鋳型が作られていたので、その技術が石棺作りに転用されたとみられています。その後、讃岐の工人が畿内へ移住。各地で産出される良質の石材を使い、盛んに石棺を生産するようになったのでしょう。

遺跡から発掘された銅鐸と銅矛(荒神谷遺跡)
実際、『播磨国風土記』には、竜山(兵庫県高砂市)の工人は讃岐から移住してきたという記述が残っています。
その他の石棺材の産地としては、現在の大阪と奈良の境の二上山、香川県国分寺町、福井市の足羽山、島根県安来市、岡山県井原市などがありました。
こうした地域にも、讃岐の工人が移住し、その技術が代々受け継がれたのではないかとみられています。
古墳や棺など、死者を埋葬するための建築には、独自の技術を持つプロフェッショナルが関わっていたことが分かりますね。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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