平安時代、娘を入内させて皇室の外戚となり、権力を掴もうと狙ったのは藤原道長だけではありませんでした。
今回は道長のライバル?とも言われた藤原顕光(あきみつ)の娘・藤原延子(えんし/のぶこ)を紹介。
果たして彼女はどんな女性で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
※「光る君へ」で宮川一朗太さんが演じている藤原顕光に関してはこちら
大バカのまた大バカだ!散々に罵倒された藤原顕光(宮川一朗太)は本当に無能だったのか?【光る君へ】
■敦明親王に入内
幸せな日々(イメージ)
藤原延子は寛和元年(985年)ごろ、藤原顕光と盛子内親王(せいし/さかこ。村上天皇皇女)の間に誕生しました。
同母兄姉には藤原重家(しげいえ)・藤原元子(げんし/もとこ。一条天皇女御)がいます。
寛弘7年(1010年)に敦明王(あつあきら。居貞親王の王子。のち親王)と結婚しました。
父の実家である堀河邸に住んだことから、堀河女御と呼ばれます。
二人の間には敦貞親王(あつさだ)・敦昌親王(あつまさ)・栄子内親王(えいし/ひでこ)を授かりました。
やがて長和5年(1016年)に三条天皇(居貞親王)が譲位し、敦成親王(あつひら。後一条天皇)が皇位を継承すると、敦明親王は春宮(皇太子)となります。
晴れて春宮妃となった延子ですが、人生の春はここまで。ほどなく三条天皇(三条院)が崩御すると、延子たちの前途は暗転してしまうのです。
■絶望のどん底で寂しい最期
悲しみにくれる藤原延子(イメージ)
かつて三条天皇は道長に対して「敦明親王を次の春宮にする」という条件で譲位しました。
にも関わらず、三条天皇が崩御するや手のひらを返し、敦明親王に春宮の座を辞退するよう圧力をかけたのです。
外戚である藤原顕光ではとても道長に太刀打ちできず、敦明親王はやむなく「自発的に」春宮の座を辞退したのでした。
延子はその悲しみを歌に詠んでいます。
そんな延子の思いなど知らず、道長は敦明親王を准太上天皇(上皇に準ずる存在)として遇し、小一条院の尊号を贈ります。
しかし実際には冷遇され、敦明親王は周囲との確執を深めていくのでした。
道長はさらに敦明親王を懐柔するため、娘の藤原寛子(かんし/ひろこ)を強引に入内させます。
露骨な政略結婚でしたが、敦明親王にも顕光にも抵抗する力はありません。
かくして延子は捨てられ(捨てさせられ)、寛仁3年(1019年)4月10日に絶望のどん底で世を去ったのでした。
■怨霊となって寛子を祟り殺す
道長の野望による犠牲者がまた一人……『紫式部日記絵巻』より
しかし悲劇はこれで終わりません。愛娘の死によって気力が潰え果ててしまった顕光も、その後を追うように世を去ります。
道長にしてみれば、邪魔な左大臣がいなくなったと清々したことでしょう。
しかし見ておれ、この怨み断じて晴らさでおくべきか……っ!
顕光と延子は怨霊となって道長の一族に祟りをなし、ついには愛娘の婿を奪い去った寛子を祟り殺します。
どうだ道長、思い知ったか!
人々は顕光の怒りに恐れおののき、口々に悪霊左府(あくりょうさふ。左府は左大臣の意)と呼びました。
道長の野望は果たされたものの、道長もまた愛娘を喪う結果となったのです。
■終わりに
今回は道長の野望によって婿を奪われ、失意の内に世を去った藤原延子について紹介してきました。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」には登場するのでしょうか。登場するなら誰がキャスティングされるのか、楽しみですね!
※参考文献:
今回は道長のライバル?とも言われた藤原顕光(あきみつ)の娘・藤原延子(えんし/のぶこ)を紹介。
果たして彼女はどんな女性で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
※「光る君へ」で宮川一朗太さんが演じている藤原顕光に関してはこちら
大バカのまた大バカだ!散々に罵倒された藤原顕光(宮川一朗太)は本当に無能だったのか?【光る君へ】
■敦明親王に入内

幸せな日々(イメージ)
藤原延子は寛和元年(985年)ごろ、藤原顕光と盛子内親王(せいし/さかこ。村上天皇皇女)の間に誕生しました。
同母兄姉には藤原重家(しげいえ)・藤原元子(げんし/もとこ。一条天皇女御)がいます。
寛弘7年(1010年)に敦明王(あつあきら。居貞親王の王子。のち親王)と結婚しました。
父の実家である堀河邸に住んだことから、堀河女御と呼ばれます。
二人の間には敦貞親王(あつさだ)・敦昌親王(あつまさ)・栄子内親王(えいし/ひでこ)を授かりました。
やがて長和5年(1016年)に三条天皇(居貞親王)が譲位し、敦成親王(あつひら。後一条天皇)が皇位を継承すると、敦明親王は春宮(皇太子)となります。
晴れて春宮妃となった延子ですが、人生の春はここまで。ほどなく三条天皇(三条院)が崩御すると、延子たちの前途は暗転してしまうのです。
■絶望のどん底で寂しい最期

悲しみにくれる藤原延子(イメージ)
かつて三条天皇は道長に対して「敦明親王を次の春宮にする」という条件で譲位しました。
にも関わらず、三条天皇が崩御するや手のひらを返し、敦明親王に春宮の座を辞退するよう圧力をかけたのです。
外戚である藤原顕光ではとても道長に太刀打ちできず、敦明親王はやむなく「自発的に」春宮の座を辞退したのでした。
延子はその悲しみを歌に詠んでいます。
雲居まで たち上るべき 煙かと【意訳】雲の彼方まで煙が上っていくと思ったのに、その前途は潰えてしまいました……。
見えし思ひの ほかにもあるかな
※『大鏡』より
そんな延子の思いなど知らず、道長は敦明親王を准太上天皇(上皇に準ずる存在)として遇し、小一条院の尊号を贈ります。
しかし実際には冷遇され、敦明親王は周囲との確執を深めていくのでした。
道長はさらに敦明親王を懐柔するため、娘の藤原寛子(かんし/ひろこ)を強引に入内させます。
露骨な政略結婚でしたが、敦明親王にも顕光にも抵抗する力はありません。
かくして延子は捨てられ(捨てさせられ)、寛仁3年(1019年)4月10日に絶望のどん底で世を去ったのでした。
■怨霊となって寛子を祟り殺す

道長の野望による犠牲者がまた一人……『紫式部日記絵巻』より
しかし悲劇はこれで終わりません。愛娘の死によって気力が潰え果ててしまった顕光も、その後を追うように世を去ります。
道長にしてみれば、邪魔な左大臣がいなくなったと清々したことでしょう。
しかし見ておれ、この怨み断じて晴らさでおくべきか……っ!
顕光と延子は怨霊となって道長の一族に祟りをなし、ついには愛娘の婿を奪い去った寛子を祟り殺します。
どうだ道長、思い知ったか!
人々は顕光の怒りに恐れおののき、口々に悪霊左府(あくりょうさふ。左府は左大臣の意)と呼びました。
道長の野望は果たされたものの、道長もまた愛娘を喪う結果となったのです。
■終わりに
今回は道長の野望によって婿を奪われ、失意の内に世を去った藤原延子について紹介してきました。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」には登場するのでしょうか。登場するなら誰がキャスティングされるのか、楽しみですね!
※参考文献:
- 土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』中公文庫、1983年12月
- 角田文衛『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』中公新書、1963年11月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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