徳川幕府の最後の将軍である徳川慶喜は、1868(慶応4)年2月11日、新政府に対して恭順の意を示し、翌日に上野の寛永寺に蟄居しています。
しかし、新政権に不満をもつ幕臣たちが慶喜の警護を名目に上野の山に集まり、彰義隊(しょうぎたい)という組織を作りました。
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ただし徳川方は、彰義隊が新政府に対抗する軍組織と見られることを恐れ、江戸市中取締を任じて表向きは慶喜の警護と江戸の治安維持を目的とするとしていました。
■リーダー・天野八郎
この彰義隊の中心人物は、当初、慶喜の出身である一橋家に仕える渋沢成一郎(頭取)と、隊士から人望のあった天野八郎(副頭取)の二人でした。
渋沢は幕末に従弟の渋沢栄一らとともに攘夷運動をしていた人物。後に一橋家に召し抱えられて徳川慶喜に仕えるようになったという経歴の持ち主です。
一方の天野八郎という人物は、日本史上ではあまり知名度は高くありませんが『てなもんや三度笠』で登場したのをご存じの方も多いかも知れません。

天野八郎(Wikipediaより)
この彰義隊は江戸の市民から慕われました。ところが無血開城後は隊の路線をめぐり、渋沢派と天野派が対立。渋沢派は隊を離脱し、新しく振武軍という組織を結成します。
この振武軍は、後日、武蔵国飯能(埼玉県飯能市)で官軍を相手に激戦を繰り広げることになります。
一方、彰義隊では頭取を譜代の幕臣から選出することになり、大目付・本多邦之輔が選ばれましたが、すぐに辞任。代わって、御使番の小田井蔵太と大目付の池田大隅守の二人が隊長となりました。
しかし、常に実権を握っていたのは副隊長の天野でした。彼は度胸があり、人間的にもスケールの大きな人物だったので自然とリーダーとして扱われたのです。
■それぞれのその後
彰義隊は、慶喜が水戸へ移ってからも上野に居座り続けます。新政府軍と最後の一戦を交えようという者たちが全国から集まってきて、その人数は一時は3000人以上に膨らみました。
しかし、いざ新政府軍が攻撃を開始すると彰義隊は一日で壊滅。100名以上の戦死者をだし、残りは散り散りに逃げるばかりでした。

彰義隊士の墓(寛永寺)
天野も逃亡して市中に潜伏しますが、密告によって捕えられ、獄中生活五か月余で病気により獄死しています。その遺体は小塚原に遺棄されるという悲惨な末路を辿ったものの、彼は拷問に耐えて『斃休録』一巻を遺しました。
一方、天野と袂を分かった渋沢も、箱館で敗北した後に官軍に逮捕されています。
その後、1871年の出所後に渋沢栄一の推挙で大蔵省に出仕。1873年に出張先のイタリアから帰国すると退官して小野組に入社、同社の破産後に渋沢栄一の援助で渋沢商店を創立します。

渋沢成一郎(Wikipediaより)
さらに後年は東京深川で回米問屋、神奈川横浜で生糸売込問屋を経営しました。
同じ彰義隊出身の渋沢成一郎と天野八郎ですが、二人の人生はこれほどまでに異なっていました。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む 雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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