三条天皇(居貞親王)と藤原娍子(せいし/すけこ)の第一皇女として生まれた彼女は、どんな生涯をたどったのでしょうか。
■斎宮に卜定される
父の三条天皇(画像:Wikipedia)
当子内親王は長保3年(1001年)に誕生しました。
同母兄弟には敦明親王(あつあきら。小一条院)・敦儀親王(あつよし。三品式部卿)・敦平親王(あつひら。二品兵部卿)・禔子内親王(ていし/ただこ。藤原教通室)・師明親王(もろあきら。性信入道親王)がいます。
寛弘8年(1011年)に父・三条天皇が即位すると内親王宣下を受けました(それまでは女王)。
長和元年(1012年)に12歳で伊勢の斎宮(さいくう、いつきのみや)に卜定(ぼくじょう)されます。
斎宮とは天皇陛下一代あたり一人の皇女が伊勢の神宮に奉仕する制度で、賀茂斎院と合わせて斎王(さいおう、いつきのきみ)と呼ばれました。
在職中は神に仕えるため、その心身が潔白であらねばならず、結婚はできません。少なからぬ斎宮が生涯を独身を貫いたと言います。
卜定とは占卜(占い)によって定めること。建前上、神意によって選ばれたのでした。
■道長と闘う父へ、神からの応援メッセージ?

三条天皇へ託宣を降す当子内親王(イメージ)
翌長和2年(1013年)に精進潔斎した(まだ伊勢には下っていない)当子内親王は、当時皇位にあった父の三条天皇へ、託宣(神から託された言葉)という形で応援メッセージを送ります。
「多くの皇女が京都よりほど近い賀茂斎院となるのに、あなたは伊勢へ皇女を送りました。これは志の高いことです。皇位は18年続くでしょう(意訳)」
ほとんどあなたの感想というか希望的観測ですが、難病を患いながら藤原道長の譲位圧力と闘う父を、何とか励ましたかったものと思われます。
翌長和3年(1014年)にいよいよ伊勢へ下向。この見送りの儀式(別れの御櫛)において、天皇陛下も斎宮も振り返ってはならないというしきたりがありました。
しかし三条天皇は娘のけなげさに耐えがたく、つい振り返ってしまったのです。
これが神の怒りを買い、在位が短くなってしまったのでしょうか。
伊勢に下った後も「神宮に怪異はないので、御代は永く続くでしょう(意訳)」と励ましのメッセージ、もとい託宣を送り続けた当子内親王。
しかし願いも虚しく、神意すらものともしない道長によって、三条天皇は譲位させられてしまったのです。
時に長和5年(1016年)1月29日、当子は16歳でした。
■引き裂かれた藤原道雅との恋

藤原道雅(画像:Wikipedia)
さて、天皇陛下が譲位すれば、斎宮はお役御免です。
残務を片付けた当子内親王は長和5年(1016年)9月3日に帰京。それからしばらくして、藤原道雅(みちまさ。藤原伊周の嫡男)と恋仲になったという噂が流れました。
これを知った三条院(上皇)は激怒して道雅を勅勘(ちょっかん。陛下直々のお怒り)。二人の仲を引き裂いたのです。
「二人を手引きしていた中将内侍(ちゅうじょうのないし)も追放せよ!」
この措置に対して、世間では二人に同情的な声が上がりました。
「「現役の斎宮と密通したというならともかく、もう還俗されたのだから、恋愛くらい許して差し上げてもよいのでは……?」」
しかし許されることはなく、寛仁元年(1017年)に当子内親王は出家させられます。
そして治安2年(1022年)に22歳の生涯を終えたのでした。
■終わりに
今はただ思ひ絶えなんとばかりを※道雅が当子内親王との別れを悲しんで詠んだ歌。
人づてならで言ふよしもがな
今回は三条天皇の皇女で伊勢の斎宮を務めた当子内親王の生涯をたどってきました。
引き裂かれた後の道雅は大いに荒れ狂い、世の人は彼を「荒三位(あらざんみ)」「悪三位」などと呼んだのでした。
道雅が大河ドラマ「光る君へ」に出てきた以上、彼女との悲恋を描かないことはないでしょう。
果たして誰がキャスティングされるのか、楽しみですね!
※参考文献:
- 倉本一宏『三条天皇 心にもあらでうき世に長らへば 』ミネルヴァ書房、2010年7月
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