文字の記録が残されるよりも前から、日本人はさまざまなアクセサリーをつけていたことが分かっています。
縄文時代のアクセサリーとしては、動物の骨・牙・角、貝殻、ヒスイ、木、粘土などで作ったヘアピン、櫛、耳飾り、首飾り、ペンダント、腕輪、足飾りなどが挙げられるでしょう。
縄文時代後期から晩期の土製耳飾り(Wikipedia)
さらに弥生時代の墳墓や住居跡からも、多数の装身具が見つかっています。この時代になると大陸との交流によって工芸技術が発達し、さまざまなタイプの装身具を作れるようになったのです。
弥生時代のものとしては、例を挙げると髪飾り、首飾り、胸飾り、腕輪、指輪、耳飾り、カンザシなどが見つかっています。
実は当時、それらの装身具を身に付けたのは女性ではなく男性たちだったと考えられています。
もちろん、現代では男性が装身具を身に付けるのは珍しくありません。ただ古代の装身具はオシャレ用ではなかったという点が大きなポイントです。
■大規模な「魔除け」
大昔は、上述のような装身具は魔除けの道具と考えられていました。いわば呪具です。
おそらく古代の人々は、動物や貝の精霊が身を守ってくれると信じていたのでしょう。それで、一家を支える男性が装身具を身につけていたのです。一方、女性たちは、夫や父の無事を祈って、そうした装身具を作っていたのではないでしょうか。
また、宝石や青銅、ガラス製の装身具は魔除けとして大きな効能があるとされ、おもに支配者層が用いたようです。
なかでも、とくに価値があるとされていたのは多くの素材を必要とし、作るのに手間暇がかかる首飾りでした。ヒモを通してガラス玉を連ねた全長1.4メートルの首飾りも発掘されています。

複数の勾玉と管玉で作られた首飾(Wikipediaより)
当時の人はそれを三重巻きにして首に巻いていたと思われ、これほど大規模な装身具は、身に付けているだけでも大変な重さだったのではないかと思われます。
今でもジュエリー類は、魔除けあるいは幸運を呼び込むものとされていますね。おそらくこうした昔の感覚の名残なのでしょう。
■装身具の役割の変化
また、当時の遺跡からは南海の大きな貝を輪切りにして作った腕輪も見つかっています。
福岡県飯塚市にある立岩遺跡の堀田甕棺遺跡に葬られていた人物は、右腕に17個、左腕に10個もの貝を連ねた腕輪がはめられていました。

吉野ヶ里遺跡の甕棺墓
ただ、こうした装身具も時代が下るとその役割が変わってきます。現代の装身具はオシャレ目的であることがほとんどですが、弥生時代後期の時点でもそのニュアンスは大きく変貌しました。
当時は大きな権力が成立し、装身具は単なる呪術の道具ではなく、権力者の地位を表すものになっていったのです。
より贅沢な装身具をつけることで、支配者が自分の権力を誇示するようになっていったのです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedias
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