特に鹿鳴館での出来事として語られるエピソードや、宮武外骨が、鳩山春子や濱尾作子などと並べて、「男勝りの女」と評したことは、彼女の生き方をよく表しています。
大隈綾子 wikipediaより
※大隈重信に関する記事
右足切断の大怪我を負ってもなお、自分を殺そうとした相手に寛容だった大隈重信

旗本の娘
綾子は、1850年、800石取りの旗本・三枝七四郎の次女として江戸に生まれました。幼い頃、いころ、兄の守富と一緒に親戚である駿河台の小栗家に住んでいました。明治維新の後、実家が貧しくなり、のちに井上馨の妻となる岩松武子と一緒に茶屋で働いていたと言われています。
18歳の頃、神田和泉橋の糸屋「辻屋」の次男で、大工の養子になっていた柏木貨一郎というお金持ちの美男子と結婚しましたが、結婚しても仲が良くならず、すぐに離婚することになりました。
20歳で大隈重信と結婚し(重信も再婚でした)、その後は常に重信に寄り添い、生涯仲の良い夫婦として知られています。

大隈重信 wikipediaより
流行に流されず、自らのスタイルを保持
19世紀後半の日本の価値観は、西洋文化を取り入れることに躍起になり、古くから日本に伝わる伝統的な価値観をどんどん排除していこうとした、そのような時代でした。
その象徴的な場所が鹿鳴館です。鹿鳴館では、多くの人が洋装でダンスをし、西洋風の社交を楽しんでいました。ところが、綾子は和服で夜会に参加したそうです。
彼女はダンスや洋装が好きではなく、日本の伝統美を大切にするために着物を着続けたのです。この姿勢が周りに影響を与え、次第に和装で参加する人も増えていったそうです。
綾子は、自分の信念を曲げず、流行に流されない強さを持った女性でした。
夫を支える「うちの番頭」
また、宮武外骨が綾子を「男勝りの女」と呼んだことからも、彼女の性格がわかります。
綾子はいつも大隈重信と一緒に行動し、その度量の大きさや毅然とした態度で、家の中でも社交の場でも尊敬されていました。重信も綾子のことを「うちの番頭」と呼び、その判断力と行動力を信頼していました。
彼女は夫の政治活動を支えるだけでなく、夫の決断にも影響を与える存在だったのです。
1896年、重信は尾崎行雄から第2次松方内閣への参加を頼まれましたが、松方たちの無能っぷりに呆れて一度は断ったそうです。そこで尾崎が綾子に相談すると、彼女は「私に任せてください」と言って奥に入り、しばらくして「大隈が承諾しました」と戻ってきました。
重信は、一度言い出したことを変えることは珍しく、尾崎は綾子の「魔力」に驚いたといいます。このような話からも、綾子が夫にどれほど影響力を持っていたかがわかります。
女性の社会的地位向上への努力
綾子は、1901年には愛国婦人会の発起人の一人となり、女性の社会的地位を上げるためにも努力しました。重信が政界を引退した後、家計が苦しくなり、1909年には町田忠治たちの助けで資産の整理を行い、昔助けた人たちから寄付を集めて生活をしたといいます。
1922年に重信が亡くなると、綾子は新しい家を建てて、重信の前妻の娘である熊子と一緒に暮らしました。
参考
- 岩崎徂堂『明治大臣の夫人』 (大学館 1903)
- 尾崎行雄『近代快傑録』(千倉書房 1934)
- 20世紀日本人名事典. “大隈 綾子”. コトバンク.
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