鎌倉幕府や室町幕府によって、荘園や公領を管理・支配する「地頭職」が置かれました。
「泣く子と地頭には勝てない」と言われた地頭は、御家人から選ばれていました。
鎌倉幕府を樹立させた源頼朝。地頭職や「御家人」の成立とも密接に関連する(Wikipediaより)
で、ここで驚きのトリビアです。
武家社会の役職というと、いかにも男性の御家人しか就けなかったようなイメージですが、実はこの地頭職は代々嫡子に受け継がれるのが普通でした。
そのため、鎌倉時代半ばまでは女性が地頭に就くことも珍しくなかったのです。
■女性が一族を束ねることも
当時の社会は所領の分割相続が基本で、女性でも、兄弟と並んで所領を相続することができました。本家は、子供の中から嫡子を一人選んで、その役割を継承させていたのです。
多くの場合は相続人として男性が選ばれましたが、これは必ずしも男性である必要はなく、女性が一族の総領になることもあったのです。
また女性の一人っ子の場合は、その子供は自然に嫡子として選ばれることになります。そんなこともあって、女性が地頭職を継ぐのはそう珍しいことではありませんでした。

源氏の家紋である笹竜胆(Wikipediaより)
現代社会では、女性の社会的地位の向上ということがずっと叫ばれ続けていますね。しかし実は、いかにも男性上位社会のようなイメージの鎌倉時代に、わりと当たり前のように女性がある程度の地位と権威を相続していたと聞くとびっくりする人も多いのではないでしょうか。
とはいえ、この「女性の地頭」はずっと存在していたわけではなく、少しずつ姿を消していきます。それには理由がありました。
■分割相続の弊害
地頭職に就いた場合、その人はもちろん御家人として認知されることになります。しかし女性が御家人として地頭職についた場合、問題となるのは幕府への武力奉公でした。
いわゆる「いざ鎌倉」「御恩と奉公」で、幕府からの命令があれば、御家人はたとえ女性であっても武力奉公を断ることができませんでした。

「いざ鎌倉」という言葉の元ネタとされる鎌倉中期の武士・佐野源左衛門(Wikipediaより)
しかし、女性が自ら武器をとって軍役に就くのは無理があります。そこで、婿や子供が代理を務めることが多かったのです。
このあたりは決して女性差別というわけではなく、身体能力などに応じた家庭などでの役割分担がしっかりしていたということでしょう。また、当の女性たちも、軍役に就くことを望んでいなかったのかも知れません。
その後、鎌倉中期になると分割相続の弊害が明瞭になってきます。
当たり前の話ですが、子供たちに領地を分割相続していけば、次第に一人当たりの所領が少なくなりますね。そんなこともあって、次第に女性へは所領を譲らないケースが増えていきました。
そして、南北朝時代にはルールそのものが変わって嫡子単独相続が始まり、女性はほとんど相続することができなくなります。こうして武家の所領相続は男子中心となり、これとあわせて女性地頭は姿を消していきました。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:Wikipedia
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