日本史において、戦国時代は多くの武将たちが活躍した時代であり、人気がありますよね。そんな戦国時代において、味方の武将たちからだけではなく、民衆や敵方からも尊敬された人物がいました。


彼の名は、島左近(しまさこん)。石田三成の右腕として活躍した彼について、その有名なエピソードをいくつかご紹介したいと思います。

※左近というのは通称で、本名は島清興(しまきよおき)といいます。ただし、左近という名で広く知られていますので、この記事では「左近」で統一して表記します。

■筒井家に仕えるものの、決別

敵までもが崇敬を寄せた戦国武将!関ヶ原の討死まで石田三成への...の画像はこちら >>


「太平記英雄伝廿五:品之左近朝行(島左近)」Wikipedia より

島左近は、1540年(天文9年)、現在の奈良県である大和国に生まれました。島家は、代々筒井家に仕えていました。始めは筒井順慶に仕え、同じく重臣で有能だった松倉右近とともに「右近左近」と呼ばれて賞賛されていました。

しかし、跡を継いだ筒井定次と相性が合わず、左近は筒井家と決別します。

■エピソード1:石田三成から提示された破格の条件

筒井家に仕えていたころから有能だったため、浪人となった島左近のもとには多数のスカウトが届きました。ちなみに、このとき左近は40代後半。誰にも仕える気がなかったと言われています。

島左近より20歳も年下だった石田三成も、声をかけた一人でした。
最初は断られたものの、三成はあきらめませんでした。三成は、自分の俸禄4万石のうちの2万石を与えるという破格の条件を提示したといいます。その心意気に胸を打たれた左近は、三成に仕えることを決意するのです。



■エピソード2:徳川家康からの誘いを断る

石田三成の腹心として、非常に有能だった島左近。そんな彼のうわさは、徳川家康にも届いていました。

家康から派遣されたのは、重臣の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)。家系の婚姻関係もあり、柳生宗矩と島左近は気心の知れた仲でしたが、光成への忠義のために、家康の誘いも断りました。

■エピソード3:最後まで石田三成への忠義を貫く

加藤清正や福島正則といった有能な武将たちが次々と光成から家康に寝返りましたが、最後まで島左近は光成への忠義を貫きました。61歳のときの関ヶ原の戦いで討ち死にしました。ただし、生存説もいくつか残っています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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