彼の偉業は彼一人で成し遂げたものではなく、その陰には多くの者たちが力を尽くして仕えていました。
今回はそんな一人である藤原惟風(これかぜ)を紹介。道長の家司を務めた生涯をたどってみましょう。
■若いころから武官を歴任
若き日の藤原惟風(イメージ)
藤原惟風は生年不詳、藤原文信(のりあきら)と清原中山女(きよはらの なかやま娘)の間に誕生しました。
弟妹に藤原惟貞(これさだ)・藤原惟忠(これただ)・女子(源奉職室)がいます。
※一説には藤原惟房(これふさ)も弟とか。
若いころから大宰大監(だざいのだいげん/だいじょう。大宰府の三等官)を経て右衛門尉(うゑもんのじょう)・検非違使(けびいし)と武官を歴任します。
正暦年間(990年-995年)に藤原高子(こうし/たかこ。のち藤原儷子、藤原灑子)と結婚、正暦4年(993年)ごろ嫡男の藤原惟頼(これより)や藤原惟経(これつね)を授かりました。
ほか生母不詳の藤原惟房(これふさ。弟説もあり) ・藤原惟佐(これすけ)・藤原惟綱(これつな)・藤原頼兼(よりかね)・覚胤(かくいん。僧侶)・女子(源頼平室)を授かっています。
そんな中、長保5年(1003年)に下総国(千葉県北部一帯)で平維良(これよし)が謀叛を起こし、国府を焼き討ちして官物を掠奪。越前国(福井県東部)まで逃亡する事件が起きました。
すると惟風に白羽の矢が立ち、平維良を追捕する押領使(おうりょうし)に任じられます。果たして武勲を立てたのか、気になるところですね。
■妻の伝手で目ざましい出世を遂げるが……。

三条天皇(画像:Wikipedia)
いっぽう妻の高子は藤原妍子(けんし/きよこ。道長次女)の乳母となっており、妍子が居貞親王(いやさだ。のち三条天皇)に入内すると、次第に夫(乳父)である惟風も地位が向上していきます。
寛弘8年(1011年)に三条天皇が即位し、翌寛弘9年(1012年)に妍子が三条天皇の中宮に冊立されると、惟風は中宮亮(ちゅうぐうのすけ)を務め、その子女らは内裏を取り仕切るようになっていきました。
惟風らの栄華は目ざましいもので、時には主君である道長さえも奇怪に思うほどであったと言います。
長和2年(1013年)には従四位上に昇った惟風ですが、長和3年(1014年)ごろに卒去してしまいました。
その死因について詳しくは語られていませんが、もしかしたら三条天皇派に寝返ってしまった惟風を危険視した道長によって粛清されたのかも知れませんね。
■死後、高子は惟貞と……。

藤原惟貞と藤原高子(イメージ)
かくして世を去った藤原惟風。未亡人となった高子は長和4年(1015年)4月、義弟である藤原惟貞との不倫が発覚します。
道長は怒って惟貞を土御門第の門前で晒しものとしました。
「そなたは極めて不都合な者である。前にも彼女の家に押しかけ、今回は牛車に乗り込んで暴行を働くとは……」
そんな危険人物ならもっと厳罰に処してもよさそうなものです。しかし暫く経つと、道長は惟貞を釈放します。
恐らく「再婚したければ構わないが、せめて喪が明けるまでは我慢しろ」ということだったのでしょう。
果たして惟貞は高子と再婚。こちらも子供をもうけています。
■終わりに
今回は藤原道長に仕えた家司・藤原惟風について紹介してきました。
最初は忠実に仕えていた武骨な部下が、妻を通じて三条天皇に取り込まれ、粛清された人生が目に浮かぶようです(諸説あり)。
NHK大河ドラマ「光る君へ」には出て来ないと思いますが、どこかに惟風がいないか、画面の隅っこを探してみたいと思います。
※参考文献:
- 倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月
- 山中裕『平安時代の古記録と貴族文化』思文閣出版、1994年
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