神君家康の孫、徳川2代将軍秀忠の息子として一時は将軍後継の最有力とまで目されたものの、わずか28年の生涯を自刃という形で終えた「徳川忠長」。一流の血統の元に生まれながら、その人生は順風満帆とはいかなかったように見える。






今回は【前編】に続き「駿河大納言・徳川忠長」の生涯をご紹介する。





前回の記事

狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【前編】
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品行の悪化から自刃まで





狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【後編】
徳川忠長像(Wikipediaより)



1630年、忠長は領地内にある浅間神社付近の賤機山で猿狩りを決行する。





浅間神社は祖父である徳川家康が14歳の時に元服した神聖な土地であり自重すべき行動であったが、忠長は害獣駆除の名目で多くの猿を殺したとされている。





さらに、真意は定かでないが帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手を殺害している。その翌年には、自身の命令の遂行に手間取った家臣をまたも殺害。急速に乱行が目立つようになった。





度重なる乱行に甲府への蟄居が決定。その際、忠長は赦免を要求したが許されなかったという。





1632年に父・秀忠が死去すると領国すべてを没収され改易。上野国高崎へ逼塞(ひっそく。昼間の出入りを禁止する罰則)させられた。1634年、幕命により高崎において自刃。
享年28。





狂人と呼ばれる由縁





忠長の改易および自刃の原因には様々な説が唱えられているが、その中でも有名なものに忠長自身の人格に問題があったとする説がある。





「狂人」や「人格破綻者」などと表現される忠長には、それを彷彿とさせる逸話がいくつか残っている。





1631年、甲府への蟄居を命じられた年には、酒によって家臣の子や御伽の坊主(髪を剃り坊主姿の年配の女中)を殺害。乱暴や狼藉も甚しかったという忠長の周りには側近は寄り付かなくなった。





当時江戸に詰めていた家老の伝聞や観察では、改易や自刃の原因は忠長本人の狂気による部分が大きいと考えられていたようだ。











自刃の真相





忠長の処分についてははっきりとした真相がわかっているわけではない。





上述の通り、忠長自身の狂気が原因で自刃に追い込まれたという見解が定説となっているが、家光の陰謀説なるものも根強く残っている。





いずれにしても神君・家康公の孫であり、2代将軍秀忠を父に持つ自身の弟に自刃を言い渡す幕命を下した家光には、抜き差しならない理由があったことは容易に推察することができる。(自刃は忠長の独断だったとする説もあり)





狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【後編】
大信寺の境内にある忠長の墓石(大信寺HPより)



その後





自刃から43回忌にあたる1675年、最後の場となった願行山大信寺に墓が建立された。大信寺には硯箱(すずりばこ)や水晶のつぼ、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが、姉の「千姫」によって寄進され位牌と共に保存されている。





正室である昌子は、忠長の自刃後に仏門に入り「北の丸殿」と称した。
側室も数人いたとされるが実子の存在は確認されていない。





また、忠長の「菩提を弔って欲しい」との頼みに答え、忠長の死後、供養のために寺を建立した家臣の話も残っている。



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