第二次世界大戦の敗戦国となって、日本は連合国軍の占領下に置かれました。そして、サンフランシスコ講和後も、沖縄と小笠原諸島が長らくアメリカの統治を受けることになっていました。
サンフランシスコ講和時に平和条約に署名する吉田茂と日本全権委任団(Wikipediaより)
また小笠原諸島は、江戸時代にイギリスの領土だった時期もあります。それだけ聞いても驚く人もいるかもしれませんが、しかし実はそれ以前にも、外国領土になったことのある町があります。
それは長崎です。
詳しい経緯を説明しましょう。もともと長崎は、秀吉の時代にポルトガル商人によって見いだされ、整備された港です。
来日したポルトガル人は、最初は平戸へ入港していましたが、平戸の領主だった松浦氏はキリスト教に関心を示しませんでした。
そこで、キリスト教の布教が目的の一つだったポルトガルは平戸をあきらめ、横瀬浦と福田浦に寄港するようになりました。
ところが、横瀬浦は、大村藩の内紛によって焼き討ちに合います。一体何が起きたのでしょうか。
■大村純忠の政策
横瀬浦を使用する許可を、大名の大村純忠から取りつけたのは、元商人であるイエズス会士ルイス・アルメイダでした。
彼の交渉によってポルトガル商人は10年間関税を免除されることになり、イエズス会には許可なしにはキリスト教徒以外は住めない土地が与えられたのです。
こうして教会が建てられ、商人たちが押し寄せた横瀬浦はすぐに栄えた港となりました。

いえずすかい 大村純忠(Wikipediaより)
しかし、大村のキリスト教に対する熱意は家臣の反感を買い、これに乗じて反純忠派の家臣たちが横瀬浦を焼き討ちしました。
さらに福田浦も、外洋に面していて停泊に不便ということもあり、ポルトガルはより良い港を求めて長崎地方一帯を測量して歩きました。
その結果、目を付けたのが長崎だったのです。
■借金のカタに長崎を譲渡
当時の長崎は、大村純忠の娘を妻とする長崎甚左衛門純景の支配下にあり、半農半漁の集落が点在する寒村でした。
そこで、キリシタン大名だった大村純忠がポルトガル商人と協力しながら、新たな町割を実施して短期間のうちに港として形を整えたのです。
しかもその最中の1580年(天正8)、純忠は長崎の地をイエズス会に譲り渡してしまいました。長崎を担保に、ヤソ会から借金していた軍資金が返せなくなったからです。

現在の長崎市の風景
また純忠には、ヤソ会に恩を売ることで南蛮貿易を独占し、富国強兵をはかろうという思惑もあったようです。
そのため、長崎は1587年(天正15)に秀吉がキリシタン禁止令を出すまでヤソ会領となり、治外法権的な外国領のような存在だったのです。
日本準管区長ガスパル・コエリョは、秀吉の追放令に対して、スペイン領マニラに援軍を求めて対抗しようとまでしています。
こうした動きが、秀吉や徳川家康のイエズス会に対する警戒心を高め、のちの禁教令へと繋がったと言えるでしょう。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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