日本初の武家法である御成敗式目は、鎌倉時代の1232年に施行された法令です。御成敗式条とか貞永式目とも呼ばれ、その後も室町時代・戦国時代・江戸時代と長く武士の法律の手本とされました。
御成敗式目が制定される前は、幕府は裁判を行う際、武士の道理と先例に基いて行っていました。
しかし支配が西国へ広がるにつれて、御家人と荘園領主との紛争が増えていきます。
『英雄百首』の北条泰時(Wikipediaより)
このため基本となるルールが必要となり、時の執権である北条泰時が中心になってこの法典を編纂したのです。
※あわせて読みたい記事!:
北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:前編【鎌倉殿の13人】

それまで、律令といえば公家による法律のことを指していましたが、御成敗式目の特徴は武士の習慣や実態にあわせて作られたという点です。
執権とともに政治を行う有力御家人や学者がメンバーとなり、時の執権を助ける形で作成されました。
完成した式目は写しが作られた後、各国の守護を通して全ての地頭に配布されました。したがって、全ての地頭はその内容をよく知っておく必要があったのです。それくらい大切なルールでした。
■なぜ「50」ではなく「51」なのか?
さてこの御成敗式目ですが、最初は35条までが作られ、そのあと付け加えがあり、全部で51箇条になるという経緯をたどっています。
今回のテーマは、なぜこのような中途半端な「51箇条」という数字になったのか、という点です。
御成敗式目は51箇条にまとめられていますが、なぜ、そんな中半端な数にしたのでしょうか。
現在の感覚でいえば一条だけ余分で、50条にしておけばスッキりするように感じられますね。
この疑問を解くカギは、陰陽思想にあります。実は、御成敗式目の51カ条という数字は中国古来の陰陽思想に基づいているのです。
■十七条憲法も建武式目も…
陰陽思想は、万物が陰と陽という二つの気によってできているという考え方で、奇数を陽とし、偶数は陰とします。

太陰大極図
そして10以下の整数では、最大の陽数が9で、陰数が8となります。陰陽思想では、この9と8を足した17という数字は、とても強い数であるとしています。
17という数字と律令の関係で考えたとき、聖徳太子の十七条の憲法や足利尊氏の建武式目を思い出す人もいるかも知れませんね。
じつはその連想は間違ってはおらず、いずれもこの陰陽思想に基づいているとされています。
で、御成敗式目の51という数字もまた、17の倍数である51に合わせたものなのです。
ちなみに、51箇条からなる御成敗式目は武家の基本法ですが、のちに足利尊氏が制定した建武式目はあくまでも武家政権の施政方針を示したもの。こちらは拘束力がないとも、御成敗式目の改廃を伴う法令ではなかったともいわれています。

足利市の足利尊氏像
数字の大きさだけで言えば、17条の建武式目よりも、51箇条の御成敗式目の方が「強かった」と言えるかも知れません。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan