江戸時代を代表する才人を誰か一人挙げよと言われたら、多くの人が平賀源内の名を挙げるのではないでしょうか。しかし彼の悲劇的な最期については、詳しいことはあまり知られていません。
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平賀源内(Wikipdeiaより)
もともと、彼はエレキテルを修復・自作したことで知られているため、理系の人と思われがちです。
確かに、源内は本草学(薬用植物学)に関しては日本屈指の大家でしたが、文系のジャンルにも強いという一面がありました。
なにせ戯作も手がける、洋画も描く、さらに小説も書くという多才ぶりです。
それに加えて、日本で初めて物産会を開いたり鉱山の採掘を手掛けたりするなど、ビジネスマンとしての一面もありました。
文化の爛熟した当時の江戸で、彼は「次々に面白いことをやる文化人」として名声を高めていきました。
さて、源内の人生の頂点は、エレキテルを自作してみせた49歳のときでしょう。
エレキテルはオランダから伝わった摩擦起電装置で、源内はこれを修理・自作してみせましたた。こうしてエレキテルは当時、珍しい器械として人気を集め、彼の名は高まりました。

国立博物館に展示されている平賀源内作のエレキテルの複製品(Wikipediaより)
が、これこそが源内を破滅に導くきっかけになりました。
弟子である職人の弥七がエレキテル人気に乗じ、源内に内緒でエレキテルを偽造して詐欺行為を働いたのです。
源内には何の罪もなかったものの、この一件で平賀源内の名声は失墜します。そして彼は世間から「山師」と見なされるようになったのです。
■悪化する精神状態
この事件は、源内の懐と精神を直撃しました。源内はこの少し前に秩父鉱山の開発に失敗して貯えを失っていたところで、そこにいわば「エレキテル・バブル」の崩壊が加わったものだから、生活費にも困るようになったのです。
さらに、上記のような「平賀源内は山師だ」という悪評に悩み、精神状態も危うくなっていきました。
今で言えば、事実無根の案件で「炎上」して追い詰められていったというところでしょうか。こういった出来事は昔からあったのです。

「道の駅ことなみ」には平賀源内ゆかりの名湯・美霞洞温泉がある
さて、1779年(安永8)の51歳の時に、彼は周囲の反対を押し切って屋敷を購入し、そこに住みはじめました。
その屋敷には検校(盲人で、社寺や荘園を監督する役職)の亡霊が出るという噂があり、源内はそれを面白がったようです。
お化け屋敷に自ら住みたがったのですから、これだけでも常軌を逸しています。実際、彼がその頃に描いた絵の中には、岩の上から降ってきた放尿を浴びて喜んでいる男の姿などがありました。
この時、源内の精神状態は既に健全な状態ではなかったのかも知れません。
■悲劇的な死
さすがに、精神病にかかったことが分かるような史料はないものの、この頃の源内は不運続きでした。
浄瑠璃のシナリオ作りでコケたり、上記のように事業に失敗したりといったことが重なり、怒りっぽくなっていたことは間違いないようです。
前述の、放尿を浴びて喜んでいる男の絵にしても、彼一流のユーモアだとする考え方があります。しかし、誰にも理解できない下品なユーモアは、この当時すでに彼の才能が枯渇していたことを表しているのかも知れません。

香川県さぬき市にある平賀源内記念館
決定的な事件が起きたのは、その年10月のことでした。
知り合いの職人が行った大名屋敷の修繕の見積書に源内がケチをつけ、それがきっかけで二人はケンカになったのです。
その時は仲裁が入り、二人はいったん仲直りして酒宴を開きました。しかしその直後、源内は勘違いからその職人を斬り殺してしまったのです。
この事件により源内は小伝馬町の獄舎に入れられて獄死しました。享年52歳。直接の死因は破傷風だったとも、食を絶っての自殺だったともいわれています。
参考資料:
歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
プレジデントオンライン
画像:photoAC,Wikipedia
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