【前編】では、織田信長が居城を次々と変えていった「引っ越し魔」の一面を持っていたことを説明しました。
織田信長が戦国きっての”引っ越し魔”だったのは何故?安土に城を築き、京に築かなかった理由【前編】
その上で、彼の最後の居城となった安土城はなぜ建てられたのか、安土の土地はそれほど栄えていたわけでもないのに……という疑問も示しました。
【後編】ではその疑問への答えと、最後に、なぜ彼は京に城を構えなかったのか?という疑問について解説します。

織田信長(Wikipediaより)
信長が安土に城を建てようと決めたのは、交通の便がいいことが理由でした。
なにせ琵琶湖を渡れば京に一日で行くことができましたし、信長の本拠地である岐阜にも近いです。
また、信長は北陸の一向一揆と摂津の石山本願寺を敵にしており、この両者を分断するためにも交通を遮断する必要がありました。
さらに、強敵である武田信玄と上杉謙信との戦いに備えるためにも、北陸道と中山道を押えることのできる安土は理想的な場所だったのです。
■京に築城しなかった理由は?
さて、信長が足利義昭を将軍に奉じて上洛し、実権を握ったのは1568年のことでした。美濃を落とし、その稲葉山城を岐阜と改名し、そこを居城とした直後のことです。
ところが、上洛したものの、信長自身は京にいることはほとんどありませんでした。岐阜を本拠としたままで、そこから義昭を遠隔操作していたのです。

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)。江戸時代に等持院像を粗描したもの(Wikipediaより)
とはいえ、いまのような通信手段があったわけではないので、義昭を管理するには岐阜は遠すぎ、より京により近いところに城を移す必要がありました。
そこで安土に城を築くわけですが、であれば、京に築城したほうがよかったのではないかという疑問が湧いてきます。
自分が天下を取ったことを示す上でも、京に城を建てた方が分かりやすかったのではないか、ということです。
しかし信長は、京には城どころか別宅も作りませんでした。京では寺に泊まることが多く、本能寺で最期を迎えたのもそのためです。
建築費を節約したとも考えられますが、信長の意図は果たしてそれだけだったのでしょうか。
■研究者の説は
信長は朝廷のために内裏や御所の修復をしているくらいですから、自分用の宿泊施設を建てるくらいは簡単なことだったはずです。
そこで研究者の中にはこう考える人もいます。信長は、京を自分の政権の中心地に据える気はもともと無かったのではないか、と。

安土城天主台石垣
もともと京は平安時代からの公家政権の本拠地であり、やがては滅びる室町幕府のある場所です。
それよりも、全く別の土地にゼロから自らの根拠地を創るつもりだったのではないか、という見方ですね。
なるほど、過去には何もなかったまっさらな土地に、新たに城と城下町を創ってそこを日本の新しい首都にする気だった……と考える方が、信長らしい構想のように思えます。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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